2010.08.16 18:20

慌しい毎日の中で、チームメンバーの一人はリタイアしていった。ある日突然来なくなった。しばらくすると荷物を取りに来て、「すいません。リタイアです。」とだけ残して去っていった。その人が担当していた仕事は荒川智則に回ってきた。月日は流れ、とうとう最初の携帯が発売された。荒川智則は自分が関わったものが製品として市場に並んでいることが信じられず、嬉しく、毎日のように2chの携帯スレッドを見てニヤニヤしていた。製品を使ってくれているユーザの全てがいとおしかった。2chで誰かがバグ報告をすると、自分のところではないかとひやひやしたりした。携帯開発は続いた。次のモデルが発売され、さらにその次もと続いていった。あるときうちのチームの担当箇所で、致命的な問題が起きた。それが発生すると、二度とその携帯は使えなくなるという最強クラスのバグだった。しかも犯人はベテランさんか荒川智則だった。調査の結果、ベテランさんが犯人とわかり、バグはすぐに改修された。たった一つのバグがこんなにも大きな問題になるのかと荒川智則は思った。そのバグに遭遇したユーザは、その携帯を失ったのだ。

2010.08.16 18:20

荒川智則はどんどん成長していった。画面だろうとロジックだろうとフレームワークだろうと、もうほとんどの箇所に担当を持つようになった。チームメンバーからも頼られるようになり、他のチームからも質問に来るようになった。自分のチームにバグがないときは、よそのチームのバグを勝手に解析して、原因と修正コードをメールで送りまくった。感謝されたり、勝手なことをするなという態度をとられたり。携帯電話を構成するソースコードは、荒川智則にとって遊びの庭のようだった。アプリ担当者がミドルやドライバ層のコードを担当することはあまりないが、そういった様々な層のコードを読むのは、新鮮で楽しかった。携帯を操作しながら、頭の中でソースコードに変換してその疾走感を楽しんだ。

2010.08.16 18:20

荒川智則は気がつけばミドル層を担当するようになっていた。アプリの世界とは違うその緻密な世界に酔いしれた。そしてそれから二年の月日が流れた。いくつもチームを変わり、不況でたくさんの人間が首になったりしながら、荒川智則は業務に励んだ。あらゆるジャンルの技術書を買い漁り、ネットで夜更かしし、あるとき、限界を感じるようになった。そしてそこからは、絶望の日々が始まった。

2010.08.16 18:20

あるレベルを超えてからだったと思う。荒川智則は自分のしている仕事を退屈に感じるようになった。どんな問題が発生しても、それはもう問題ではなくなってしまっていた。解決する喜びは薄れ、チームメンバーからの質問に怒りを覚えるようになっていた。周りには誰も尊敬できる人間はおらず、いいようのない孤独に蝕まれるようになった。

2010.08.16 18:20

荒川智則は朝一から終電までの労働を何の苦にも思わなかったはずが、朝起きるのもつまらなくなり、遅刻が増え、かといって残業するような問題はどこにも転がっていないという状況だった。一日三時間労働であっても、問題のない成果を上げられる気持ちになっていった。子どもが生まれ、少し問題があって病院にたくさん通うようになり、ますます勤怠は悪化していった。そしてある日、社長に呼び出された。

2010.08.16 18:20

それは荒川智則がやがて退職を切り出すことになる喫茶店での出来事。社長は荒川智則の勤怠の悪さを注意した。普通の会社だったら一発で首になると。今の派遣先はそういう面に甘いのかもしれないけどちゃんとしてもらわないと困る。うちは時間でお客さんからお金をもらっていると。そして社長は前月の荒川智則の売り上げについて言及した。その月は日ごろの遅刻癖の上に子どもの通院が倍以上に増え、それはもう悲惨な勤務状況だった。労働時間が少ない割りに精神的に疲労も強い時期だった。荒川智則は、たとえどんなに病院が遅くまでかかっても、どんなに遅刻しても出社していた。有給休暇なんてほとんどとらなかった。一日一時間でも労働できればスケジュールは達成できていたので、チームには迷惑はかけていないつもりだった。何かチームで問題が生じていても一応毎日出社はしているので、それで問題ないだろうぐらいに思っていた。少し前までは残業しまくっていたので、今少しくらい時間が減ってもいいだろうぐらいに思っていた。だがそれは甘かったようだ。だが荒川智則は他のことがひどく気になった。

2010.08.16 18:20

「うちは時間でお客さんからお金をもらっている」。つまり、荒川智則はただの時給アルバイトだったのだ。強い誇りを持ち、日々技術向上に打ち込み、技術課題を突破し続けてきたこれまでの日々は、全て会社に、時給換算での利益しか与えていなかったし、会社はそれをもってしか荒川智則を評価していなかったのだ。

2010.08.16 18:20

チームメンバーの人たちは、毎日遅くまで残業しているようだ。あんなに簡単そうなことをそれはもう朝から晩までうなってがんばっている。どんなに効率悪く成果悪く労働しようと、とにかく人より無駄に多く労働しさえすれば、その方が会社の利益になる。そういう仕組みの上で荒川智則は働いていたことに今になって気付かされた。成果なんてどうでもいい。首にされるくらいひどくなければ、あとはもうとにかく無能に長く長く労働して下さい。会社にそう言われた気がした。あなたの技術的な成長や未来方針なんてどうでもよいから、とにかく長く長く効率悪く労働して下さい。頭の中でループし続けた。荒川智則は思った。俺は何をやっているんだろう。

2010.08.16 18:20

荒川智則は社長に言った。「確かに精神がたるんでいました。甘えていました。今日をもって改善いたします。会社に迷惑をかけて申し訳ございませんでした。」社長は言ってくれた。過ぎたことはもう取り返せないから不問にします。これから頑張ってくださいと。ミスを許してくれてありがたい気持ちだった。それからしばらく、荒川智則は努力してみた。勤怠を改善した。先輩から病院のときは有給を取ればよいとアドバイスされ、通院日は有給取得するようにした。勤怠の悪い月の給料は、月の必須労働時間に足りない分は欠勤扱いとされ、その月の給料は十万円だった。妻に怒られた。そしてその次の月の途中くらいから、子どもの通院日は欠勤した。だがその月の給料は有給が適用されていなかった。これまでは、休んだ日があっても有給が残っていれば自動で有給扱いになっていた。なのに今回はなっていない。問い合わせると、月の労働時間に足りていないので有給を適用しなかったとのことだった。そんな話は聞いていないなどと勝手なことを思ったりもした。だが時間が足りていないのだから仕方がなかった。これからは有給取得する日はその日ごとに申告して下さいとその場で言われ、そうすることにした。

2010.08.16 18:20

荒川智則は疲れていた。何もかもに疲れていた。一番辛いのは子どものことだった。子どもは少し問題をかかえている。それは娘の生涯にわたるレベルの問題だった。そこに自らの労働感の崩壊と会社からの評価を受けて、次第に仕事をやめることを考え始めた。これまでにも何度も転職騒動はあり、その度に思いとどまってきた。妻や親からなだめられ、確かに今のまま頑張り続けるべきだと思い直した。しかし今度はこれまでのものとは違うようだった。もう荒川智則はこの仕事を続けていくことが不可能だと思うようになった。

2010.08.16 18:21

茶店荒川智則は社長に退職理由を伝えた。仕事がつまらないこと。このままでは成長がないこと。時間でしか評価されないという仕組みに憤りを感じていること。最初の頃は、自社で直接一括で仕事を請け負ってやろうという話もちらほらあったが、最近はもうそんな話はなくただただ人を派遣するだけの会社になっていた。荒川智則はまくしたてた。
「自分はそこらへんのプログラマの五十人や百人相手にならないくらいに成長しました。それはここ数年ずっと努力し続けてきたからです。でも結局自分は会社にとってお荷物じゃないですか。いくら努力したってがんばったって、どれだけ能力を高めたって、それを生かすことなんか出来ないじゃないですか!」

2010.08.16 18:40

社長は理解を示してくれた。その気持ちはわかると。先輩には相談しなかったのかと聞かれた。別の先輩から昔、自分の人生の運命を決定するようなことは、絶対に人に相談してはいけない。相談してそれで決定してしまったら、絶対にあとで後悔するからと聞いていた。その旨を伝えると、社長は、確かにそうだねと言った。社長も今の会社を作る前にサラリーマンをやめるとき、誰にも相談せずに決めたと。社長はいろいろと話してくれた。そしてとりあえず近いうちに自社でもう一度話し合おうということになり、喫茶店を出た。出たあとで、またいろいろ話してくれた。昔も院を出てたすごい優秀なプログラマがいて、やっぱり荒川智則と同じことを言っていたよと。そしてその人はやめて転職してしまったと。荒川智則もその人に似ている気がすると。荒川智則のいうことはとてもよく理解できる。ただ理解して欲しいのは、今のうちの会社には、仕事を一括で受注するにはリスクが高すぎるんだよと言った。「技術的なリスクなど問題になりません!」と荒川智則は叫んだ。しかし社長は、技術的な問題ではないと言った。体力がないんだと。体力とは資金のことか。一括で仕事を請け負うとなると、その半年か一年あるかわからないプロジェクトの成果物を納品するまではお金を払ってもらえなかったりする。今みたいな派遣なら、毎月体力のある大企業からお金が入るからそれでやっていけるのだろう。半年も一年もお金が入らずに社員にはお金を払うという体力はないのだろう。荒川智則は最後の望みのように叫んでしまったが、無為に終わってうつむいてしまう。

2010.08.16 18:50

悄然として分厚い扉を開け、エレベータに乗り、見慣れたフロアに戻る。自分の席についてみるも、仕事をする気にはならず、「お先に失礼します」と聞こえないような声でつぶやいて席を立つ。何人かがお疲れ様ですと声をかけてくれた。なんとなく嬉しかった。今日の東京は暑い。歩く度に汗が噴出す。ハンカチで顔をぬぐいながら、荒川智則は渋谷をあとにする。荒川智則秋葉原を目指していた。

2010.08.16 20:30

久々の秋葉原だった。電気街口への道を間違えて苦笑する。駅から出ると、そこかしこにそれ系の人がいて、渋谷とは違った感じが楽しい。太ったオタクのような人たちが、名刺交換のようなあいさつをかわしていて、オタクの中の尊敬序列は不思議でならないと思う。萌え萌えな声をふりまくメイドが街頭で客寄せをしている。ツクモはまだ営業していた。パーツショップはひとつでも多く生き残ってもらいたいものだ。荒川智則は適当な店に入り、MacBookを購入した。妻が娘のためにとっておいた婚前貯金に手をつけたのだ。荒川智則は購入したMacBookを封もきらずにソフマップ本館の方角へ向かう。その裏がリナックスカフェだ。カフェは適度に混んでいる。オレンジジュースを頼んで席につく。やってみたかった「リナカフェなう」というtwitterへの携帯からの書き込みを終える。店内を見渡す。確かに技術者らしき人たちが交流している風景がある。電源のある席に移動し、MacBook開封する。セットアップしたが、ここには契約している無線Lanの環境がないのでネットに接続は出来ない。シェルを立ち上げていじりながら店内を見渡す。それなりに男女比率は均等だった。男も女も、いくつかのグループが出来ていて、楽しそうに時々技術用語が飛び交うのがこっちへも届く。年齢層も様々で、ちゃらちゃらした若いのから、年代ものそうなしぶいおじさん技術者から、結構かわいげな女の子まで、いろいろいる。楽しそうに歓談している姿を見ながら、強い違和感を感じていた。技術者として自分のレベルを上げるために、いろいろなコミュニティに参加して、様々なレベルの高い技術者と交流することは有効だ。でもそのためには、どうして人間的なコミュニケーションというやつが前面に出てくる。歓談している技術者たちは、技術者としてではなく素の人としてコミュニケーションしているように見える。だんだん馴れ合いのように見えてくる。その瞬間思い出した。そうだ、荒川智則は馴れ合いが大嫌いだった。調子にのって週末の勉強会に参加申し込みしたのを後悔していた。帰ったらキャンセルしようと思った。

2010.08.16 21:05

リナックスカフェは即効で閉店してしまった。食事をしていなかったのですぐ傍のペッパーランチに入ってペッパーライスを注文する。ずいぶん久しぶりのペッパーランチだった。やけに威勢のいいベトナム系の男性従業員に苦笑する。従業員は三人。元気なベトナム人と、痩せたおばさんと、太った男性。こいつらが海底施設に閉じ込められても、絶対協力とかしなさそうだなとサバイバルに不向きなことに同情する。しばらく考え事をしていたのか、ペッパーライスはいつの間にか冷めてぱさぱさになっていた。もそもそと食べる。ベトナム人の威勢のいい声に見送られながら店を出た。麻雀をしなければならないと思った。

2010.08.16 23:05

ぼんやりしていたのか電車を乗り過ごしたり間違えたりしているうちに帰宅が遅れた。時間がないので駅でタクシーを拾う。運転手はおじいちゃんだった。携帯の電池が切れてしまったので、とくにやることもなくぼんやりする。ちょっと思うところがあって、運転手に話しかけた。
「かなちゅうってあるじゃないですか?あれって何なんですか?」
「やあ、あれは神奈川中央交通の略称ですよ。バスとかタクシーとかやってます。」
「へえそうなんですか。知らなかったなあ。ちょっと変なこと話していいですか?」
「はい。なんでしょうか。」
「実は今日退職願い出しちゃったんですよ。」
「ええ?そうなんですか?」
「でも今になって後悔してるんですよ。」
「そりゃあそうでしょう。今は仕事がないですよ。」
「社長に出したんですけど、話してる間ずっと僕足が震えちゃって。自分が失業者になるのが怖くなったんですね。」
「わかりますよ。今は我慢した方がいいですよ。転職しても条件悪くなっちゃいますから。」
「でももう辞表出しちゃったんで、あれなんですけど。でも考えちゃいますよねぇ。」
それ以上話すこともなく黙っていると、運転手の方から話しかけてきた。
「お客さん若そうですけど今何歳ですか?」
「26歳です。すぐに27です。」
「結婚とかされてるんですか?」
「ええ。一応娘がいまして。」
「それならなおさら駄目ですよやめちゃあ。」
「まあそうなんですけど。妻も納得してくれまして。」
「私のところにも36の息子がいますけど、まだ独身でしてねぇ。」
「そうなんですか。」
「そういや息子が26だかそれくらいのときに社長賞もらったんですよ。」
「ほお!それはすごいじゃないですか。よっぽどすごいことしたんですねぇ。」
「なんでも四十億円くらい稼いだらしいです。」
「ほんとですか?すごすぎですね。」
ソフトバンクってあるじゃないですか。あそこでして。」
「めちゃめちゃエリートじゃないですか!トップは孫さんですよね。」
「でも未だに課長にもなれないってぼやいてますよ。」
「はああ、でも給料いいですよね。」
「年収八百くらいっていってましたっけねえ。」
「そんなにあれば充分ですよ。六百あれば余裕だって誰かが言ってましたよ。」
「お客さんつきました。」
「はい。ありがとうございます。」
タクシーを降りようとすると運転手がまた話しかけてきた。
「でもやっぱりやめない方がいいですよ。今より悪くなっちゃいますよ。」
「でも今も結構悪いですからね…。」
「よく考えた方がいいです。明日にでも頭下げて取り下げた方がいいですって。どうかしてましたって謝れば許してくれますよきっと。」
「そうですね。よく考えて見ますよ。妻とも話し合います。ありがとうございます。いい話聞かしてもらっちゃって。」
タクシーは去っていった。荒川智則は気が重くなった。あのじじいただの息子自慢かよ。荒川智則はつばでも吐いてやりたい気分だった。

2010.08.16 23:15

ぼんやりしていて玄関の扉を普通に開けてしまい音のせいで娘が起きてしまった。少し前に麻雀に行きたいとメールしたら妻は切れてしまった。娘のために貯めたお金をそんなことに使うなふざけんなと。荒川智則は自分の部屋に向かう。その日の朝に部屋のカーペットを粗大ゴミに出すために、上に載っていたものをよけた。部屋は床がむき出しになりやけに空虚な感じが漂う。少しすると妻が起きた娘をかかえてやってきた。荒川智則は謝ったあと、どうしても麻雀に行きたいとせがんだ。妻は切れた。行くなら行くがいい。その代わり私と娘はもういないと思えときた。荒川智則は黙り込んでしまった。落ち込んでいる様子が伝わったらしい。妻が話しかけてきた。理由を説明して。納得できるよう説明が欲しい。荒川智則は言った。わからないんだ。ただどうしても行きたいんだ。今行かなきゃ駄目になる気がするんだ。妻は言った。意味がわからない。ちゃんと説明して。荒川智則はまた黙り込んでしまった。目にはうっすらと涙さえ浮かべていた。妻はあきらめたようだ。荒川智則家の今家に置いてある全財産である、MacBookを買ったお釣りである二万円を渡してきた。

2010.08.16 23:21

それですっきりできるの?娘の前でそんな風になるな。娘はちゃんとわかってるんだから。お父さんが落ち込んでると伝わっちゃうんだよ。それで麻雀したらもう娘の前でそんな風にならないと約束して。何に悩んでるかわからないけどとにかくちゃんと帰ってきてね。妻は部屋に戻った。出るときは声をかけろと。荒川智則は二万円を前に迷っていた。最低のクズ野郎だなと思った。この金をつかんで麻雀に行ったらもうどうしようもないな。それでも抑えることは出来なかった。牌を握って考えなければならないことがあるのだ。着替えて自転車に乗って駅へ戻った。終電が近いので急いだ。疲れのためか情けなさのためか、心臓は不規則に鳴っていた。

2010.08.16 23:50

新宿への最終電車に間に合った。ホームで待っている間。不思議な気持ちになった。電車がホームに入ってくるとき、なぜか自分の体が勝手に動き出してしまうような気がして、ぎゅっと身を引いた。電車の中は退廃した空気だった。みな疲れてぐったりしている。こんな時間なのに化粧をしている女性がいた。荒川智則は自分も化粧がしたいと思った。

2010.08.17 00:40

新宿の方が秋葉原よりも自分に合っていると荒川智則は考えていた。ギラギラした光がちりばめられた景色は、そういった光でしか心を癒せない人種の最後のたまり場だった。なじみの雀荘に着いた。平日なので立っている卓は二つしかなかった。すぐに入れますよとのことだった。荒川智則は最後の麻雀に挑んだ。持ち金は二万。二回負ければ終わりになる。

2010.08.17 01:03

同卓した三人の特徴はバラバラだった。遊び人風の中年。年老いたサラリーマン。水商売風の若いスーツ。平日の夜中に雀荘に来るだけあって、腕は五分五分だった。一瞬の気のゆるみが致命傷になる。東三局中盤、スーツからリーチがかかった。荒川智則の手はスーアンコーイーシャーテン。降りる気はなかったが聴牌もしないだろうなと思っていた。スーツはなかなかつもれず、とうとう荒川智則聴牌した。追っかけリーチ。3巡ほどして、親のサラリーマンが鳴きを入れた。荒川智則のツモがスーツにずれる。次巡、スーツがつもった。マンズの6。荒川智則の上がり牌でもあった。サラリーマンが鳴かなければ、荒川智則はスーアンコーをあがっていた。荒川智則は運命を感じる。麻雀の神様にやっと会えたと思った。

2010.08.17 03:40

勝負は山あり谷ありながら、中年が負け続けで帰ってしまったあとにハワイ風のおっさんが入ってからは、平坦に進んでいた。荒川智則はプラス1万円くらいだった。突然ハワイがツキはじめ、4連勝してしまう。荒川智則は手持ちが一万円になってしまった。その後も現状維持が続き、スーツが破産してサラリーマンもハワイも帰ってしまった。卓割れになり、荒川智則はもうひとつの卓へ移動する。やくざ風の肌の黒いおっさんとタバコをやたらにふかす婆さんと風俗帰り風の男性だった。いきなり婆さんが高い手をあがり、風俗の親っぱねに振込み、荒川智則はあっという間に死にかけになってしまった。そして最後はリーチも出来なくなり、なんとか聴牌したが、婆さんが一発でハネマンをツモ上がり、荒川智則はとんだ。綺麗に金がなくなった。荒川智則は席を立った。本当は一日中やるつもりだったが、金が尽きたら仕方がない。麻雀の神様に礼を言って店を出る。つらいことがあるといつも麻雀に逃げていた。たとえ勝っても負けるまでやり続けた。麻雀で大金を失うと、とても虚しい気持ちになる。何をやっているのかと悲しくなる。少し経てば、それは反転してエネルギーになる。荒川智則はそのエネルギーに助けてもらうときが幾度かあった。しかし今度は重症らしく、エネルギーどころか余計に虚しくなるだけだった。

2010.08.17 06:00

新宿に朝日がめぐる。けばけばしい光はアスファルトに吸い込まれたようにいなくなる。東京に血液がめぐる。電車に乗った荒川智則の頭の中では無数の電車が東京中にヘモグロビンを運ぶイメージが浮かぶ。今日は会社を休もうと思った。部長に欠勤通知メールを出した。今日にも社長から荒川智則の辞意が伝えられるはずだ。部長は荒川智則のことを息子のようにかわいがってくれた。荒川智則も部長のことが大好きだった。部長と社長の善意や好意には、感謝してもし足りないと思っていた。

2010.08.17 08:30

駅に着いた。交差点で信号待ちしていると、急に鼻血が出てきた。左手が血まみれになった。あまりにも量が多いので仕方なくハンカチでふさぐ。買ったばかりなのに。のぼせたのだろうか。鼻をおさえながら帰路につく。家に入る。娘と妻はすやすやと寝ている。雀荘で充電してもらった携帯を開くと、妻と娘のところに帰れとつぶやきが入っていた。帰ってきたよと心の中でつぶやき荒川智則は部屋に向かう。中央が空っぽの部屋の棚には技術書が詰まっていた。これまでの技術者としての日々が走馬灯のように浮かぶ。楽しかった社員旅行の思いでも。自社の同僚や社長たちとは、半年に一回の飲み会くらいでしか会わない。荒川智則が入社してからもう四年になろうとしているが、自社の人間と関わった時間のトータルはすごく少なかった。派遣という形態がもたらす人間関係の希薄さが悲しかった。派遣先の同僚たちとはそれなりに世間話したりするが、とても仲間だとは思えない。荒川智則よりも恵まれた給与体系。昇進制度、資格取得でのボーナス。有給休暇の自由な手厚い取得。同じ時間働いても、彼らよりはるかに貢献しても、荒川智則の給料はせいぜい二十万にいかない額だった。

2010.08.17 08:40

荒川智則は思い出していた。これまでまるで評価されなかったなと。社長や部長は荒川智則がどれだけ尋常じゃない努力をしているか、どれだけ技術者としてレベルを上げたか、一切知らないし興味などないだろう。聞かれたこともない。毎月時間通り働いて時給分稼げばよかったんだなと。プロジェクトが路頭に迷ったとき、荒川智則は人の何倍も働いた。家に帰ったあとはネットで調査し、いつも技術のことを考えていた。チームの前を塞ぐ障壁を取り除こうと最大限にがんばってきた。そして気付いた。一度もお礼をいってもらっていないことに。荒川智則さんには感謝しています。いつも大変なときにたくさん助けていただいてありがとうございます。そういった言葉を一度もかけてもらったことはないと。問題を取り除いてやると、その場では礼を言われる。しかし、全体に対する貢献が評価されたことはなかった。彼らにすればトゲを抜いてくれた小人くらいにしか思っていないようなのだ。小人は精一杯がんばっています。でも時々は褒めてやって下さい。働きに値するだけの褒賞を与えてやって下さい。荒川智則の中の小人がそうつぶやいていた。

2010.08.17 08:50

荒川智則は眠りにつこうとしていた。何か変化が訪れたわけでもない。ただ傷ついて、失うだけの一日だった。でもそれは、これまで荒川智則が送ってきた日々と何も変わらないのだった。荒川智則が眠りにつく直前に思い描いたイメージがあった。娘の笑顔と、妻の怒ったような困ったような顔だった。妻が娘にスプーンを持っていくと、娘はそれをつかんで振り回すのだ。スプーンに乗せたご飯が辺りに飛び散って、妻はよくそういう表情をしている。娘はきゃっきゃと笑って気にもしていない。荒川智則は安らいだ。そして眠りについた(twitter)。

2010.08.16 17:58

荒川智則は社長との待ち合わせをすっかり忘れていた。もう一時間近く通らないテストケースを前に呻吟していた。デバッガを立ち上げたら負けだと思っていた。そろそろギブアップしようかと思った所に携帯のメール着信があった。フロアは携帯持込禁止だったことも忘れていた。ふと時計を見ると六時になろうとしていた。ふいに社長との約束を思い出す。慌てふためいてメールを見ると社長から待ち合わせ場所への到着通知だった。バタバタを席を立つとエレベータへ乗り込む。エレベータの中はむっとする匂いが立ち込めていた。今日一日乗り込んだ男たちの汗と女たちの香水が混ざり合うこともなく浮遊している。荒川智則は顔をしかめた。エレベータの中の鏡に映った自分の顔を見る。なんだか疲れたような印象を受ける。これからする話の内容を思うと胃がきしむような気がした。エレベータを降り社員用通用口の重い扉を開ける。荒川智則派遣社員だ。この扉を通る度に違和感を感じていた。

2010.08.16 18:03

扉の外はまるで湯気の雨でも降っているようなひどい暑さだった。来世にはドラクエラナルータみたいに昼と夜どころか夏と冬を取り替える研究をしようと思った。荒川智則は走った。体が汗のバリアで包まれる。何から守ってくれているのかはよく分からない。息が切れそうになる頃、ようやく喫茶店に着いた。扉を開けると心地よい冷気が流れ込んできた。店の中からすれば蒸し暑い外気が流れ込んできて不公平感が強いだろう。歩きながら店員に待ち合わせである旨をジェスチャーする。喫煙コーナーの一角に社長がいた。お疲れ様ですと挨拶をし、対面に座ろうとしたらカバンが置かれていたので隣の席の対面側に座った。社長は吸っていたタバコを消した。社長はどうしたの?というような顔をしている。少し気まずい空気が流れたあと、おもむろに荒川智則は切り出した。
「すみません。ちょっと言いにくいんですが、決断したことがありまして…」
そう言ってポケットから前日にしたためた退職届を取り出した。走ったせいで封筒がくしゃくしゃになっていた。冷や汗を感じながら封筒を差し出す。社長は少し驚いたような、やっぱりそれかというような判然としない表情をしている。
「これは?…」と社長が苦いような表情をしている。
「その、まことに、申し訳ないんですが。」荒川智則はしどろもどろになる。声はかすれて相手に届いているかもよくわからない。
社長は少し黙ったあと、理由を訊ねてきた。
荒川智則は前日に妻からなだめられたことを思い出した。社長には思っていることを全部言うつもりだというと、妻は、そんなことを言ったらけんか腰になる。当たり障りのないことでとどめておくべきとアドバイスをもらった。しかし、他に話すこともないので、ここしばらくずっと考えていたことをとつとつと話し出した。

2010.08.16 18:08

「私のような人間を拾って頂いたことの感謝を忘れたことはありません。最初の面接のとき、私は自分のスキルをずいぶん誇張しました。たぶん気付かれていたと思います。あの頃の私は、口先だけで何もできない本当に駄目な人間でした。そんな私に成長のチャンスをいただいたこと、派遣先の面接のとき、強引に私をねじ込んでくれたこと、本当にありがとうございます。あのとき拾っていただかなければ、今頃そこらへんの浮浪者になっていたと思います。今の私があるのは会社のおかげです。本当にありがとうございます。」
社長は黙って聞いている。荒川智則は思い出していた。荒川智則が会社に就職してすぐ、おりよく派遣先の面接を受けられた。派遣先の担当者は現場のマネージャで、携帯電話の開発をしているとのことだった。プロジェクトは数百人体制でやっていると。荒川智則はそこでの面接でもやはりしどろもどろで、相手のマネージャの関心のなさそうな態度にひどく心を傷つけたことを覚えている。社長はそのとき面接に同行してくれ(社長は営業を兼ねているので)、スキルに何の問題もありません。絶対に活躍できるのでぜひお願いしますと売り込んでくれた。社長も本心ではそんなこと思っていないだろうと荒川智則は余計に傷ついた。面接が終わったあと、感触がなかったのは社長も感じていたようで、まあ次があるさみたいな励ましをしてくれた。面接会場は開発フロアの入り口手前にあるロッカールームで、セキュリティカードで施錠された扉の向こうには、数百人の開発者たちがひしめいているのだと感じた。壁はガラス張りになっているわけではないので中の様子は分からない。防音されているらしく中の音はほとんど漏れてこなかったが、それでも激しい音声や、多少の笑い声や、なんだか充実しているような気配を感じた。荒川智則はほんの手の届く所に自分の夢見た世界があったこと、そこにやはり手が届かなかったことに打ちのめされた。面接の少し前、その現場にすでに入っている自社の先輩と現場近くの焼肉屋で社長と共に食事をした。社長は先輩に荒川智則を紹介してくれた。先輩は小太りのメガネをかけた人の良さそうなオタクという感じで、ちょっと髪が薄くなっていた。先輩はニコニコしながら、Cが出来れば大丈夫だよと応援してくれた。ぜひ一緒に仕事をしましょうと言ってくれた。荒川智則は絶対に面接を突破するぞと意気込んだ。先輩はこのあとまだ仕事があるとはやめに切り上げた。あの人と同じ現場で働きたいと強く思った。思い描いていたプログラマのまさにその姿だった。

2010.08.16 18:20

派遣先での面接はもう年の瀬も近い寒い時期で、荒川智則は面接直後に帰省をした。なぜか社長が実家の両親に挨拶をしたいと言い、一緒に帰省することになった。これから預かることになるから安心して下さいと両親に伝えたいということだった。それと荒川智則の出身校や高知のめぼしい大学や専門学校を回りたいと。人材発掘がしたいといういことらしい。荒川智則は知っているめぼしいコンピュータ系の学校名を挙げ、時間の都合上回れそうなところを紹介することになった。その頃荒川智則は会社のオフィスで寝泊りしていた。日雇い肉体派遣の仕事で日銭を稼ぎながらの生活だった。毎日ネットカフェではお金がたまらないし体力的にきついだろうということで、部長と社長で相談して、営業時間後のオフィスで寝泊りしてよいということになった。荒川智則は信じられない思いだった。まだ派遣先も決まっておらず試用期間も始まっていない初対面の不審な高知から放浪してきた若者をオフィスに一人で寝泊りさせるというのだ。部長からフロアのセキュリティカードを渡され、入り口の施錠のやり方、夜遅くにビル全体が施錠されたときのロック解除のやり方を習った。部長はプログラマ時代に自分も使ったという高級寝袋を持ってきてくれ、夜はこれで寝るといいとのことだった。暖房も明かりもつけっぱなしで問題ないと。オフィスがずいぶん広く、夜景が綺麗で、不思議な気持ちで寝袋で眠った。

2010.08.16 18:20

ある晩オフィスでテレビを見ていると、ひょんと部長がやってきて、ビールとおつまみをくれた。近くにある店を教えてくれ、そこでいろいろ買うといいと。すぐ近くに銭湯もあると。荒川智則は連日の肉体労働で体がずいぶん臭くなっていたので、銭湯に行くことにした。やる気のない番頭に金を払って湯船に入った。全身に刺青をした客もいたりして怖かった。都会は銭湯も狭いんだなと思いながら、その晩はとてもよく眠れた。翌日の肉体派遣は遅刻してしまった。当時荒川智則は生まれて初めての失恋を経験しており、そのショックは日々心を蝕んでいた。旅の途中で会った女性とメールをやり取りして気晴らしをしていた。好意を抱いていたわけではなかった。その女性とその後結婚し娘が生まれるなんてことはこれっぽっちも想像していなかった。何しろ荒川智則は相手の顔もよく覚えていなかった。思考や記憶があやふやになっていく毎日だった。前向きに生きているように見えて、その実もう何もかもあきらめていた。

2010.08.16 18:20

帰省の日、オフィス近くの駅で社長と待ち合わせをした。都会の駅は広く、待ち合わせ場所を間違えて時間をロスしてしまった。なんとか余裕をもって羽田空港に到着した。社長のおごりで喫茶店でカフェラテとベーグルを食べる。ずいぶんゆったりとタバコを吸う社長。搭乗口に行ったらもう搭乗時刻を過ぎていた。社長は二人分のチケットが無駄になると部長に怒られると困っていたが、別に乗り遅れてもその後の便に空きがあれば乗れることがわかりホッとしていた。しばらく待ったあと、次の便に乗り込む。三ヶ月も歩き続けた道のりが、飛行機だと一時間半で着いてしまい、荒川智則は苦笑を抑えられない。飛行機の中で寝てしまったらしく、社長からいびきがすごかったよ笑われた。荒川智則はすみませんと頭を下げる。高知龍馬空港から連絡バスで高知駅へ行き、そこから特急で実家のある町へ向かう。特急の中でも寝てしまったらしく、社長からいびきがすごかったよ苦笑された。荒川智則はすみませんすみませんと頭を下げる。父親に地元の駅まで迎えにきてもらい、社長と共に実家に向かう。社長には一番広い部屋で寝てもらうことにして、荒川智則は物置部屋で寝ることになった。その晩の宴は社長と父親がずいぶん盛り上がり、普段あまり笑うことのない父親を見て荒川智則は社長に来てもらってよかったと思う。社長はビールと焼酎のちゃんぽんで沈没してしまい寝室にひきあげた。寝る前にノートパソコンでメールをチェックしているのを見て、ビジネスマンだなと感じた。高知では龍馬学園というコンピュータ科のある専門学校と高知工科大学に社長を案内した。受付で社長が名刺を出し、就職課の先生を呼んでもらい、卒業生から人材を発掘するためのコネクション作りをするようだった。なぜか荒川智則もビジネストークの場に同席し、社長からその学校へ伺うことになった経緯として紹介される。まったく縁もゆかりもない学校へ来て話をするなどビジネス素人の荒川智則には理解できなかった。高知工科大学へ行くときは複雑な心境だった。その情報工学科は、荒川智則が高校時代入学を夢見た場所だった。高知にいて情報工学を進むなら、そこしかないという学校だった。真新しいキャンバス。地上十五階もあるドミトリー(学生寮)は地元でも有名で、あまりの人気に新入生でも抽選になる。そこへ入って日々プログラミングに打ち込むことが荒川智則の高校生活で夢想した生活だった。荒川智則の高校生活は当初は成績優秀者だったものの、次第に退廃し、高知工科大学への入学は厳しい状況であることを知り、さらにすさんだ生活を送り、結局家庭の事情もあってあきらめてしまった。その高知工科大学に訪れることになり、またキャンバス内を歩くことになるとは夢にも思わなかった。そこには確かにあの頃描いていたものがあり、夕暮れどきのキャンバスを闊歩する学生たちは、楽しそうに会話し、手にはノートパソコンを抱えていたりして、荒川智則は胸をえぐられるような痛みを覚えた。

2010.08.16 18:20

荒川智則は確かにプログラマとして採用された。しかし試用期間が実際に始まるのは年明けの一月からで、派遣先も決まっていない現状では、プログラマになった実感などなかった。工科大学の就職課で社長が事務員や教員とビジネストークをする。ここでも荒川智則はこの大学を訪れた縁として社長から紹介される。当時はプログラマの世界は景気がよく、高知工科大学を卒業した情報系の学生たちは選択肢が多くあり、荒川智則の会社のような小さなところにはとても人材を引き抜くことは出来そうにない気配を、荒川智則は教員たちの話しぶりから感じていた。社長も結局手ごたえを得られなかったようで、ただの名刺交換で終わった様子だった。荒川智則は一刻も早くキャンバスから出たかった。えぐられすぎた胸には何も残っていないような気分になっていた。キャンバス近くの学生たちが自主経営しているコンビニで腹ごなしをした。なごやかな雰囲気の店の奥には従業員として学生たちがいて、若い男女が楽しそうに会話していた。荒川智則は適当に食べるものを買って早々に外に出た。駐車場には餌目当ての猫がいて、荒川智則は買ったパンやおかしをちぎって放り投げていた。しばらくして社長も出てきて、二人でバスに乗った。バスから夜闇の中のぽつぽつとした街灯を見ながら、荒川智則は意識が消えてなくなるようにと願っていた。

2010.08.16 18:20

高知で回った最後の学校は、荒川智則の母校だった。就職担当として出てきた教員を見てぎくりとした。荒川智則の卒業当時の担任だった。向こうは荒川智則の顔など覚えていないようで、話は滞りなく進んだ。荒川智則の母校の卒業者でプログラマを目指すような人はまったくといっていいほど出ていないようで、これまでで一番手ごたえがなかった。その元担任には、高校当時、指定校推薦というやつで行くことが決まっていた九州の八流大学を荒川智則が直前になって蹴ったため、ひどく迷惑をかけており、荒川智則は始末書を書いたことを思い出した。担任も家庭の事情は汲んでくれたようで、まあがんばれよと話を収めてくれた。そこでも社長は、この度荒川智則を採用することになったこと、荒川智則の紹介でこの学校へ人材募集に来たことを伝える。荒川智則の高校卒業からすでに五年が経っており、今更東京で採用されたなどとその間何をしていたのだといぶかしがったことだろう。荒川智則はその空白の期間、何もしていなかったのだから、いぶかしんだところで無意味だ。

2010.08.16 18:20

荒川智則が驚いたのは、社長が麻雀を愛していたことだ。その方面の話でずいぶん盛り上がり、荒川智則は親近感を感じていた。高知から東京へ社長が帰る前日、地元の友人たちとの麻雀に社長が同席し、友人たちからかもられているのを見て、荒川智則はいたたまれない気持ちだった。社長が弱いのは、ビールと焼酎のちゃんぼんのせいである。父親との酒盛りが盛り上がった日、これから友人たちと麻雀に行くと就寝前の社長に言うと、同席したいなどと言い出したため仕方なくつれてきた。社長は終始にやにやしながら暴牌をして負け続けた。社長は楽しかったといってくれ、荒川智則は胸をなでおろした。空港で別れるとき、社長からこの間の派遣先の面接のことを報告を受けた。お客さんの反応は相当に厳しいようで、今のところ入るのは無理ということだった。なんとしてもねじ込むから、入ったときに駄目な奴だと思われたことを見返すくらい実績を出すようにがんばれと言われた。社長はああ言っているがこれはもう駄目だなと荒川智則は落ち込んだ。派遣先の面接をどこも突破できずに試用期間が終わり、また無為な生活に戻るんだろうなと予感を感じていた。

2010.08.16 18:20

年が明けた。荒川智則は無事入社していた。辞令をいただき、社員としての生活が幕を開けた。派遣先からはいつの間にかOKが出ており、あこがれの先輩と同じ職場で、あのときの面接の扉の向こうで、働くことになった。ただし、プログラマとしての採用ではなかった。そっちは人員が足りているということで、評価人員、つまりテスターとして採用するとのことだった。荒川智則はショックも受けたが、何より面接を突破したことに舞いあがり、テスターからでもがんばって、すぐにプログラマになりますと宣言した。うれしくて、その日のビールはおいしかった。お祝いに、恵比寿ビールを飲んだ。これから社員になるということで、少し前に、会社が寮としてマンションを一部屋借り上げてくれた。部長と一緒にマンション管理会社に行きキーをもらい、たくさんの荷物を手に持って新たな住居へ向かった。新しい街の駅で降りた。そろそろサラリーマンたちが帰ってくる少し前の時間で、風も空気もやれやれこれから騒がしくなるぞとぶつぶつ言っているような気配のする、なだらかな街だった。部長と一緒に歩いた。部長も、結構いい街だよと評価していた。

2010.08.16 18:20

マンションに着いた。ワンルームマンション。部屋はがらんどうで、うっすらとホコリがつもり、西日が射していた。部長は荷物の中から青いカーテンを取り出し、まずはこれを取り付けようと言った。カーテンはプレゼントしてくれるらしい。部長の家で余っていたやつらしい。その青いカーテンは、今も荒川智則の部屋の窓にかかっている。次に、照明器具を取り付けることになった。会社の経費で少し前に荒川智則が買って来たものだった。天井に手が届かず、足の土台になりそうなものもないので、部長が馬の姿勢になり背中に乗るように言い出した。荒川智則は肉体派遣と旅のせいで足がとても汚れていたので、とんでもございませんと拒否した。かといって荒川智則の体では部長を支えられそうになかった。部長は思案したあと、玄関の靴置き場の中を分解して土台になっていたベニヤ板を数枚取り出し、組み合わせて土台にした。それに乗って照明器具を取り付けた。スイッチを入れて部屋が明るくなる頃、外はもう暗くなりかけていた。部長はシャワーカーテンもプレゼントしてくれ、ユニットバスなので便器と風呂を仕切るためのカーテンとして取り付けてくれた。部屋には部長からもらった寝袋と最低限の荷物だけが置かれていたが、それでも部屋らしくなったと、荒川智則は少しわくわくする気持ちを覚えた。部長に礼を言い、一人残された部屋であれこれ考えながら、寝袋で眠った。部屋にはエアコンが始めから取り付けられており、かび臭い空気を排出していた。

2010.08.16 18:20

派遣先に出社する日が来た。絶対に遅刻はすまいとアラームを何重にもセットしておいた。三十分以上も早くつき、時計台で社長と待ち合わせ、入り口で社長に見送りしてもらい、とうとうあの扉の向こうを見ることが出来た。恐ろしく広いオフィスだった。一面に机の島が並んでおり、びっしりと人とパソコンがあった。同じ日にそのオフィスに入ることになった派遣の人たちが他に三人いて、荒川智則と同じ区画に配置されることになった。DELLのレンタルパソコンを与えられ、まずはそれを組み立ててセットアップするまでが今日の仕事とのことだった。パソコンを落とさないように慎重に机に運び、梱包を解いてセットアップする。梱包の袋やケーブルをまとめる部品などはゴミ箱に捨てた。あとからレンタル品だから梱包一式も捨ててはならないと気付き、首になると荒川智則は怯えていた。パソコンのセットアップが終わり、見慣れた、しかしとても新鮮なWindowsXPのデスクトップが表示された。プロジェクト共通のwikiで最低限のツール類をインストールした。開発者向けのツールはライセンスが限られているから、テスターである荒川智則たちはインストールしないようにとのことだった。

2010.08.16 18:20

新規参入テスター四人は、せっかくの初対面ながら、ろくに会話もせずに、緊張したような面持ちで過ごしていた。プロジェクトマネージャからは次の指示が出ておらず、とりあえず技術書でも読んで勉強しておいて下さいとのことだった。フロアに配置されていた技術書を適当に持ってきて、各々読み始める。開発者向けの技術書ばかりで、テスターが読んでも仕方ないものばかりだったが、荒川智則は楽しんでいた。だが、そんな日が何日も続くとは予想外だった。プロマネからはいつまで待っても次の指示が出ない。来る日も来る日も定時に出社して本を机に持ってきて、ずっと読んで、定時に本を返して帰るだけの日々。荒川智則は何度も催促に行ったが、変化は訪れなかった。そして一ヶ月が過ぎた。荒川智則は思った。大人の事情があって何人かとりあえず受け入れたけれど、実際は仕事なんかないのじゃないか。とりあえず雇用してやって形だけ義理を果たして切るつもりなんじゃないかと。他の三人もあきらめのような気配を漂わせている気がした。

2010.08.16 18:20

一ヶ月と一週間くらい過ぎた頃、やっと指示が下りた。配属先のチームが決定され、みんなバラバラになることになった。荒川智則を除いて。荒川智則にだけは指示が来なかった。荒川智則は混乱していた。どうして自分だけ配属先がないのか。そしてプロマネに指示を仰いだ。これまで通り本を読んでいて下さいとのことだった。社長や部長に相談することなど出来なかった。いざ現場入りしたものの未だに仕事が与えられていないなどと言えるはずがなかった。自分は何の問題もなく現場に溶け込んでいる。そろそろ新人歓迎会の打ち上げがありますよくらいの空気を演じていた。

2010.08.16 18:20

二ヶ月になろうとかという頃、荒川智則はビールを飲まなくなっていた。知り合いなど一人も増えなかった。皆与えられた仕事をしており、荒川智則にはそれがなかった。時々先輩が声をかけてくれることだけが救いになっていた。今は我慢だよと言ってくれた。何を我慢するのだろうか。先輩は忙しそうだった。荒川智則は何もすることなくぼんやり過ごすことが多くなった。技術書の同じページをむなしく目で追っていた。

2010.08.16 18:20

そろそろ春になろうかという頃、荒川智則プロマネに呼ばれた。荒川智則はもうあきらめていた。このままいけば試用期間と同時に首になるだろうなと思っていた。かといって次の仕事を探すような意欲はなかった。プロマネの言葉は意外なものだった。配属先が決まった。そしてテスターではなく開発者としてチームに入ると。先輩と同じチームのようだ。荒川智則はしばらく思考停止していた。思っても見なかったことだった。プロマネは別段たいしたことでもないという風にだらけた感じで説明していたが、荒川智則の中では熱いものがこみ上げて噴出しそうになっていた。荒川智則プログラマになった。

2010.08.16 18:20

席は先輩の隣。チームメンバーは荒川智則と先輩の他に四人。とある携帯電話のアプリを開発しているチームだった。チームの平均年齢は高く。三十代のプログラマばかりだった。チームリーダーに挨拶をした。こちらこそよろしくお願いしますとやけに礼儀正しいリーダーだった。他のメンバーにも挨拶する。仕事の手をとめて応答してくれる。これからはこのチームで仕事をするんだ。仲間なんだと、一人盛り上がる荒川智則。先輩に教えてもらって、開発者向けツールを次々にインストールする。圧縮して数ギガバイトもあるソースコードを先輩から渡され、解凍し、自分たちのチームの担当はここだよと教えてもらった。無数にある階層の、無数にあるディレクトリの中のひとつだった。それなのに、さらにその中は十個以上のディレクトリと百を超えるソースコードが詰まっていた。こんなに大きなコードを担当するのなんて大丈夫なのかと不安になった。

2010.08.16 18:20

荒川智則は適当にひとつソースコードを開いてみた。さっぱり理解出来なかった。他の一つを開いてみた。同じく理解出来なかった。「なるほど、こうなっているんですねえ」と先輩に虚勢を張る。心臓がばくばくしていた。はやくも逃げ出したくなっていた。リーダーから、チーム内の一番ベテランの人が作った練習問題があるからまずはそれを解いてみたらとのことだった。開発環境に慣れられるよと。ベテランの人から問題を渡される。練習問題くらいと思ったら、さっぱり解けなかった。

2010.08.16 18:20

例えばこんな問題だった。「C言語でint型変数aに入っている数字を二倍にして下さい。ただしとても処理性能が低いので、効率よく二倍にして下さい」。荒川智則は困ってしまった。「効率よく」って何だよ。これでただ二倍にするコードを書いたら首が飛ぶだろう。飛ばなくてもチームメンバーから一切信用されない人間になる。分からない問題を飛ばして次の問題を見る。しかしそれも分からない。そうやって結局ほとんどの問題を解けないことに気付いた。脇に汗がじっとりとにじむ。

2010.08.16 18:20

二時間くらい経って、リーダーからそろそろ解けましたかと聞かれる。荒川智則は、今もうちょっと答え確認しているところですと嘘をつく。その実荒川智則がやっていることは、問題を解いているのでなく、チームの共有サーバを探索することだった。問題集もそこにおいてあるのだから、どこかに答えもおいてあるはずだ。

2010.08.16 18:20

見つけた。kotae.txtのような名前のファイルがあった。開くとまさにそれだった。丸写しするとばれるので若干細工しながら写していく。リーダーに報告する。「終わりました」。リーダーからチャットツールで返答がくる。「ここに答えが置いてあるので答え合わせをしておいて下さい」。そのアドレスはさっき見つけたものと同じだった。てっきり出来たものを提出して答え合わせされるものだと思っていたが、自己採点のようだ。しかも結果を報告するわけでもないらしい。考えてみれば当たり前で、皆自分の仕事があるのだから、新人教育などに割く時間を増やすまねをするはずがなかった。荒川智則は顔を赤らめて、自分がさっき写したばかりの回答を見ながらうつむいていた。

2010.08.16 18:20

リーダーの要請で、先輩から開発技術について指導を受けることになった。先輩はアプリのフレームワーク部分を担当していた。最初にチームメンバーに自己紹介するときに、C++は高校のときから使っていましたと行った事もあり、リーダーは変に期待をもってしまったようで、どうやらもう少しで初仕事が与えられる気配を感じていた。「他のアプリに起動要求を出すときはここの関数を使うんだよ。あと呼ぶときの注意としてこの引数の領域は所有権が相手に移るから自分で消しちゃだめだよ」。荒川智則は所有権の意味がすぐに飲み込めず、かといって恥ずかしくて質問も出来ず、ふんふんとわかったように肯いていた。しかしこちらから質問をしないことによって、先輩はある程度見抜いてしまったようだ。荒川智則は夜逃げをいつ決行するか思案し始めた。

2010.08.16 18:20

荒川智則に初仕事が与えられた。アプリの画面担当だった。リーダーとチームは、二種類のアプリを担当していた。そのうちのひとつのアプリの全画面部分の担当が荒川智則の初仕事だった。荒川智則は、なんだViewかよ、これならあくびしてても出来そうだな。夜逃げしなくてよかったぜと思った。そして、別のチームのデザイナーさんの書いた画面のユーザインタフェースの資料に目を通し始める。いろいろな部品の配置場所や、どのボタンを押したらどの画面に遷移するかだとか、どのときにユーザにポップアップダイアログを表示して選択を仰ぐかなどが書かれていた。荒川智則は眠気を感じながら仕事を進めた。数時間かけ大体把握できたので、実装に取り掛かった。先輩にアプリを構成する各部品の説明書、仕様書の場所を教えてもらう。リストボックス、コマンドボックス、テキストラベル、イメージボックス、使う部品の数は多いが、所詮View部分、パズルみたいに配置してイベントを記述したら完了だ。お茶の子さいさいとはこのことだ。荒川智則は得意げに部品の説明書に目を通した。血の気が引いていく。

2010.08.16 18:20

その世界は最新の統合開発環境とは違っていた。画面が1クリックで土台が作成され、部品をメニューから選んでドラッグアンドドロップしたら配置完了して、部品をダブルクリックしたらイベントハンドラのベースが作成されてコード画面に飛んで、あとはイベントを書いて終わりという世界ではなかった。全ての部品の初期化、配置優先順位、後始末、イベントハンドラでの様々な制約、アプリのフレームワークとの複雑な制御手順、イベントをもらってアプリのロジック部分に配送するときの複雑な手続き、携帯電話のあらゆるイベントでの個別の応答規則。誰からアプリを起動されたかによって複雑に変化するインタフェース。起動するのはユーザだけじゃない。別の様々なアプリから起動されうる構成だった。多種多様な情報を渡され、どれを自分で保持してどれを他に渡して結果を受け取ってさらに配分するのか、そして携帯電話アプリにとってある意味最悪の敵、ちらつき。画面を描画するときにちょっとした処理負荷や制御ミスで画面がちらつく。それはユーザに強い不快感を与えるので、たかが見た目の問題でも絶対にあってはならない。

2010.08.16 18:20

最初に着手したのはリストアップ画面だった。メインの部品はリストボックス。そしてこのリストボックスの制御が恐ろしく煩雑だった。携帯アプリでは動作のもたつきは致命的だ。例えば一画面に10個を超えるような情報をリストアップしようとしたら、それを一度に生成して描画していたらユーザはその間キーを押しても反応がないから不快感を感じる。だから情報生成も描画も、分割して行わなければならない。処理を細切れにすることで、ユーザーは便利になるが、開発側の負担は増す。あらゆる処理の隙間にユーザ操作が割り込むことになるから、自分の状態を逐一把握して、いろいろな処理をキャンセルしたり再発行しなければならない。それを可能にする部品のインタフェースというのは、無駄に複雑になっている。荒川智則は試しに全部の情報をひとつの関数の中で一気に生成して読み込んで、さらにそれを一気に描画するようにしてみた。開発環境で画面を開くと、もたもたしてキーを入力できるまで2秒くらいかかっていた。何しろリストボックスには一度に表示しきれない情報は画面の外側に存在しているが、その情報まで生成していたのだ。無駄処理だった。そんなもの商品にならないので荒川智則は処理を分割した。関数ではちょっとずつ情報を処理して、すぐにいったん制御を上に戻してコールスタックを切るようにした。こういったことをするのに、すでに何日も消費していた。そもそも、最初にリストボックスが画面に表示されるまでに二日くらいかかっていた。リーダーは最終的な全ての画面の完成期限は数ヶ月先だからのんびりやればいいよとスケジュール管理もあまりしない方針だった。勝手に信頼してしまったようで、気楽な反面怖い面もあった。

2010.08.16 18:20

処理を細切れにしたことで、キーはさくさく入力できるようになった。その引き換えに、アプリがすぐにエラー終了するようになった。処理を分割した隙間にキー操作が入ることで、想定外の動きをしてしまうのだ。例えば、まだ情報が生成されていない場所にユーザがキーで移動していくと、存在しない情報にアクセスしようとしてエラーになった。携帯はマルチタスクだったから、描画してる間にもユーザは気が変わってメニュー画面を開いて別のアプリを起動するかもしれない。そういうとき自分のアプリは裏に回る。裏に回るときは自分が持つ情報は最低限にして多くのメモリを解放しなければならない。そうしないと、新しいアプリが動作する充分なメモリが確保できなくなる。しかしそのあと自分のアプリがまた前に戻ってくると、必要な情報まで解放してしまっており処理継続できずにエラーになったりした。バグを見つけてはつぶしていった。しばらくするとエラー終了しなくなったが、コードのあちこちにエラーを回避するためのフラグが作られ、可読性もメンテナンス性もかけらもないようなゴミになっていた。荒川智則は数週間後にチームメンバーによるコードレビューを控えており、とても評価してもらえるようなコードではなかった。リーダーがいつの間にか後ろに来ていて、「やあちゃんと動いているねえ」と安心した様子だった。確かに見た目は動いているのだが、どうして動いているのかよくわからない部分がずいぶんあった。コードレビューではそれも説明しなければならない。理解していない箇所が残っていたら致命的だ。コードを整理しながら、どうしてこの画面はちゃんと動いているのか理解しようとした。そのためには、リストボックスやフレームワークやロジック部分のソースコードを自分で読むしかなかった。救いだったのは、全てのソースコードデバッグ用情報つきビルドされており、デバッガでいくらでも他のコンポーネントソースコードにもぐっていけたことだった。来る日も来る日も、デバッガでソースコードを追いかけ、どういう風に動いているのか理解しようとした。そしてその砂漠の上を歩くような永遠とも思える作業が、少しずつ荒川智則の世界を広げていった。

2010.08.16 18:20

コードレビューはさんざんだった。特にベテランさんの攻撃がすさまじく、あらゆる罵倒をされた(プログラマに対してという意味での罵倒だ)。メモリの解放漏れを検出するツールにかけると、膨大な数の解放漏れがあった。ソースコードの一箇所を指し、「ここでユーザがこういう操作をしたら何が起こりますか?」と聞かれ、考えてみると、異常動作につながることが理解できた。普通ユーザはそんなところでそんな操作をしないかもしれないが、もし十万回に一回でもそれが起こってしまったらもうそれは欠陥商品なのだ。ユーザの数は数万人どころではない。その数が、数年という年月であらゆる操作を行うのだ。様々な場所を指摘し、「ここでこういう操作が来たらどうなりますか?」と諭された。荒川智則が用意したノートは、細かい文字でびっしりと指摘内容を記録していった。荒川智則は、途中から半泣きになっていた。自分の思慮の浅さ、未熟さにうちひしがれた。

2010.08.16 18:20

荒川智則が最初の画面をコードレビューを突破できるくらいまで完成させた頃、先輩から飲みに誘われた。居酒屋でおごってくれるということで、いろんなメニューを頼んでみた。先輩は終始ニコニコしながら、いろいろな話をしてくれた。先輩は奥さんと子どもが一人いて、三十年ローンを組んで家を買ったからものすごい大変だよと笑っていた。プログラマの給料はそんなによくないから、その大変さは理解できた。先輩の履歴を聞かせてもらった。昔はコピー機の技術者をやっていたらしい。異動があって客のクレーム処理と機械の客先メンテナンスの部署になり、そこで強いストレスを受けたと言っていた。会社の不備で、機械にマニュアルや資料が付属していないことが多々あった。問い合わせが客からあっても、客の手元にある説明書と同じレベルの資料しかこちらにもないような状況だったと笑っていた。だんだん精神的に追い詰められて、やめることになったらしい。そして趣味でやっていたプログラミングを仕事にしようと、地方から今の会社の求人を見つけて応募したらしい。そのときすでに先輩は三十歳。その年齢からこの業界に新規参入ということで、それなりに大変だったようだが、なんとか乗り越えて今があるということだった。ずいぶん奥さんの年齢が若かったのでどうやって知り合ったのか聞くと、ネットでのやり取りで知り合ったそうだ。長い間遠距離恋愛をして、結ばれたらしい。ちょうど先輩がプログラマになる時期に。単身赴任しているときに妊娠が発覚して大変だったよと言っていた。笑いながら子どもの写真を見せてくれた。子どもはいいよと笑っていた。荒川智則は自分に子どもができるなんてことは信じることが出来なかった。

2010.08.16 18:20

そろそろお開きになろうかというとき、先輩は急に真剣な口調で話しだした。荒川智則が会社に入ったことをうれしかったと言っていた。そしてやめないで欲しいと。荒川智則はもう夜逃げする気はなかったのでそんなの心配いらないですよと茶化すと、そうじゃないと。これまで何人も若い新人が入っては、つぶれていったということだった。精神的にも技術的にも、壁にぶつかって乗り越えられない人間があまりにも多いのだと知った。そして荒川智則は、その壁は明日にでも自分の前に立ちふさがることを肌身にしみて知っていた。技術者には毎日のように難問が発生する。ひとつ解決してもまた次の問題が持ち上がる。永遠に続く試練のような日々に、耐え切れなくなる人は多い。最終的な製品というのは、無数の屍の上に成り立つという面がある。先輩は言ってくれた。できることはなんでも協力する。わからないことがあったらなんでも質問して欲しい。また来年もこうやってうまい酒が一緒に飲めるようにがんばろうと。荒川智則はあまり感動できなかった。来年もこうしてプログラマをやっていけている自信があるのかないのか、空っぽの胸は答えてはくれなかった。

2010.08.16 18:20

荒川智則には本を買うという趣味があった。自分のレベルに合わない技術書でも、それが一万円しようと、平気で給料を投じる性格だった。だからその現場に入るときにも、数万円かけて関連しそうな技術書を購入しておいた。その内容はあまりにもレベルが高く、何度読んでも飲み込めなかった。会社にもそれらを持ち込んで、行き詰まる度に開くものの、期待した理解や情報が得られたり得られなかったりだった。それでも繰り返し読むうちに、何かひとつの道のようなものが開拓される気分をあじわった。次第にそれらの技術書は聖書のようになり、いつも手元におくようになった。電車の中で、休憩時間に、寝床で、読む度に新しい発見があった。そしてそれは着実に業務に良い影響を与えていった。荒川智則は最初の仕事に打ち勝った。リーダーから指示された画面を全て完成させた。それどころか、もうひとつのアプリの画面の一部まで担当させてもらえることになった。

2010.08.16 18:20

それはこんな画面だった。ユーザが好きな絵を好きな場所に配置できる。背景の絵の上でそれらをリアルタイムに動かして、保存すればそのまま待受け画面にそう表示される。絵は重ねて配置することが出来る。荒川智則はすぐに背景を読み込んで配置し、その上に好きな絵を配置して、自由に画面内を動かせるところまでコードを書いた。リーダーが「もうできましたか」とうれしそうに見に来た。荒川智則は得意そうにキーを操作する。リーダーに指摘されなくても、ひとつの大きな欠陥に気付いていた。ちらつきである。背景の絵を読み込む部品の上を、別の絵を読み込んだ部品が動き回る。ひとつキーを押すごとに、全ての部品に描画命令が飛ぶ。そして重なりあった部品では、他の部品の描画が下にある部品の描画に影響する。絵を左から右の方へキーを押しっぱなしで動かそうとすると、目が痛いほど画面がちらつく。そしてそれを修正することが困難だった。部品に描画命令が飛ぶことはアプリレベルの層でいじることは出来ない。そして描画命令を受けた部品がどのように自分自身を描画するかということは、部品自身で決定している。全て他チームのコンポーネントで、部品は全てのチームで共用しているから、自分たちの個別要件で修正願いなど出せるわけがない。つまりこのちらつきは、自分たちで手を入れることが出来ない。荒川智則は行き詰まってしまった。

2010.08.16 18:20

ダブルバッファリングという技術について荒川智則は知識があった。いろんな描画を一度にはしらせるとちらつくから、画面とは別の画面を裏で用意しておいて、そっちで全部描画が完了してから、メインの画面に差し替えるという技術だ。しかし今行き詰まっている画面の描画を制御しているのは各部品である。自分で何もかも描画していればいくらでもやりようがあるが、かといってイメージを読み込んだり重ね合わせたりというコードを一から書いていたら品質にもスケジュールにもリスクが高い。うんうんと悩んでいると、リーダーがアドバイスをくれた。似たような処理をしているコンポーネントがあるよとのことだった。早速そこのコードを見てみる。そこには答えがあった。仕組みは違うが肝心の部分はまさに答えだった。その部分をぱくり、荒川智則は画面を完成させた。ちらつきは一切起きなくなっていた。

2010.08.16 18:20

リーダーが荒川智則にまかせてくれたその画面は、もうひとつのチームでネックになっていたところだと後から聞いた。誰も良い案が出せずに、スケジュールのガンになっていたと。それを解決した荒川智則に、リーダーは次の仕事を与えてくれた。もう画面じゃなかった。ロジックの部分の仕事だった。ロジック部分はベテランさんが二つのアプリの全てを担当していた。さすがに仕事量が多すぎるから、一部を手伝ってくれとのことだった。そして荒川智則がまかされたのは、簡易データベース処理の部分だった。荒川智則は喜びに震えていた。自分は成長しているんだと思えた。

2010.08.16 18:20

荒川智則はベテランさんと会議室で二人きりで打ち合わせをしていた。ベテランさんはすでに処理のおおまかなイメージは出来ており、図をまじえて概要を説明してくれた。上から要求された内容をファイルに書き出し、要求された内容を読み出す処理だった。その頃はもうひとつのアプリの方の他の画面もまかされていて作業量は多かったが、それくらいならすぐに出来ると思った。ベテランさんの懸念は一箇所だけだった。このデータベースの内容は、絶対に壊れてはならないという点だ。ファイルへの書き込み中に電池が抜かれて携帯が動かなくなっても、このファイルの内容は完全になっていなければならないと。もし壊れたファイルになってしまったらこういうことになると説明してくれた。その内容は確かに致命的だった。それが起きればユーザは確実にクレームをつけてくる。

2010.08.16 18:20

そのデータベースはベテランさんの担当しているあるロジックで使われる。一回処理が走ると、もうユーザは操作できなくなり、携帯の内部状態を次々に書き換えていく、その書き換えたことを記録していくデータベースだと。これからする内容を書き込んでおいて、完了するごとに完了マークをつける。たとえ作業途中に電池が切れても、そのデータベースから、どこから作業を続行してよいか判別できる。ただし話はそう簡単ではない。一度書き換えて完了マークをつけた箇所の情報はすでにそれ以前の状態には戻せなくなっている。だから最初にデータベースを作って、一つだけフラグをファイルに書き込んでおいて、全部終わったらそのフラグを操作するということは出来ない。途中の状態を全て管理しなくてはならない。そしてこの携帯のファイルシステムは、複数バイトの情報を書き込み命令を出しても、それが完了する前に電池がきれてしまったら、中途半端な内容が書かれることを防ぐことが出来ない。少なくとも書き込む前の状態にまで戻してくれればやりようがあったのに、そうではないと。

2010.08.16 18:20

荒川智則はなんとかそれを実装した。細かい処理単位ごとにロックするような感じで、たとえどんなポイントで電池が切れようと不整合にならないようにした。しかし問題があった。処理に時間がかかりすぎるのだ。明らかにロックしすぎだった。荒川智則はそれを完全には解決出来なかったが、なんとかユーザにストレスを与えないレベルまで持っていった。もちろん完成するまでは大変だった。ある程度動いたところでベテランさんにソースを渡して組み込んでもらう。ベテランさんはすぐにバグを報告してくれた。自分のバグのせいでベテランさんの作業を止めてしまうのだから、ストレスは強かった。たまにしか起きない問題があって、ある瞬間に電池を抜かれるとファイルが壊れるようなのだが、ベテランさんが一回遭遇しただけで、それ以降遭遇しないようだった。何度も何度も電池を抜きまくって荒川智則はバグを再現させた。