意思と表象としてのマスク

緊急事態宣言が解除され再開されたキャバクラで女性従業員全員がマスク着用して接客するという記事を読んだ。それはもはやキャバクラではないのではないかと思う。

キャバクラでは客だけでなく女性従業員もアルコール入り水分を摂取する。飲むときはマスクをずらすしかあるまい。飲むときだけマスクをずらし、飲み終わるとマスクを元の位置に戻すのだろうか。客も同じように飲むときだけマスクをずらすのか。それともストローでも挿して、マスクの隙間からすするのだろうか。客はマイボトルのキープだけでなくマイストローまでキープするのだろうか。

キャバクラはおそらく会話を楽しむ場であるが、マスク中の会話ほど不適切なものはない。NHKラジオのアナウンサー達も、マスクしたままで長時間しゃべり続けることでマスクにつばが張り付いてべちゃべちゃになり、息苦しささえ感じるようになったそうだ。このような状況ではそれまで嬢だけが居心地の悪さを我慢すればよかった場は、客にも居心地の悪さを共有せざるを得ず、居心地の悪さというものはキャバクラの性質上あってはならないものなので、事業継続性に疑問を感じる。

 

ではマスクをとればよいのだろうか。嬢と客両方がマスクオフしてしまえば感染するだけなので、嬢だけはせめてマスクをとるとしよう。それだけだと嬢のつばがマスクをした客の目から侵入してしまうので、客にはやはりマイフェイスシールドがキープされるだろう。入店時に客にはマスクとフェイスシールドの着用が義務付けられよう。これによって嬢の顔は露出され、キャバクラの性質の一定以上は担保されるだろう。

しかし、これだけではまずい。嬢同士の感染を防げないのだ。嬢もせめてフェイスシールドはしないといけない。今マスクが流行したことにより、アイライン周りだけしっかりメイクすれば誰でも美人になれるともてはやされているが、むしろこれからはフェイスシールド状態でも映える化粧というものが必要になろう。しかしいくら化粧を凝らしたところで、フェイスシールドを装着した見た目はやはり異様であり、女性としての生身の魅力を相当に減殺する。暗い店内のなにかの照明の光やらで、フェイスシールドの表面のプラスティックの反射し、もはや客の前にあるのは女性ではなくただの光であるという哲学的な境地になってしまいかねない。

 

マスクは生活の全てを覆い尽くすことが間違いない。なにしろ新しい生活様式では家族内でさえ会話時はマスクが奨励されるのだ。つまり、この世界から「顔」が消えるのだ。街を出歩いても、店に行っても、もうどこにも顔は無いのである。顔とはもともと異性交渉のインタフェースでしかないが、顔がなくなるとは出会いがなくなるということだ。ちょっとしたことで一目惚れとか、そういうことはこれからは起きない。それどころか、その人の素顔なんてもう一生拝むことはない。これからのコロナ世紀においてマスクをせずに外出することはすなはち死を意味する。自分だけでなく自分の身内親族、生活圏内の全てを死のリスクにさらすことになる。この状況でマスクをしないのはマスクを買う金がないような貧困層だけであろう。マスク格差社会というわけだ。

だから外を出歩く人間は、オフィスにいる人間は、絶対にマスクをしている。寿命が来るその日までマスクを外すことは絶対にできないのだ。キリスト教徒の贖罪にマスク装着義務が付与されたようなものだ。

女性が初めてあなたの前でマスクをとってくれるのは、服を脱いでくれるのと同じタイミングになるだろう。マスクはもはや衣服の一部であり、自分の身内の前だけでしかそれをとることは許されない。そのときに相手の顔を初めて知ることになり、もしそれが好みでなかったら、どうなるのかということに意味がなくなるだろう。

これからは顔はもう関係なくなる。本当の意味で、異性交渉のための顔というパーツの存在理由は消滅してしまったのだ。

それとも、男女はZoomを使ってお互いの顔を認知するのだろうか。しかしZoomは背景だけでなく顔さけもディープフェイクすることが可能だ。こんな破廉恥な虚構はあるまい。一度は廃れてしまったテレビ電話の需要が渇望される。