暗夜行路の主人公。近代の知識人の苦悩の象徴。現代人にはこの種の苦悩は無いように見えてもっと深まっている。そしてこの後謙作が辿る運命は、知識人としての宿命として良いパターンになっている。

謙作は二階に火を入れさして、久しぶりで机に向かった。彼は長い間怠っていた日記をつけ始めた。
ー何か知れない重い物を背負わされている感じだ。気持ちの悪い黒い物が頭から被かぶさっている。頭の上に直ぐ蒼穹はない。重なりあった重苦しいものがその間に拡がっている。全体この感じは何から来るのだろう。

    • 日暮れ前に点ぼされた軒燈の灯という心持だ。青い擦硝子の中に橙色にぼんやりと光っている灯が幾ら焦心った所でどうする事も出来ない。擦硝子の中からキイキイ爪を立てた所で。日が暮れて、灯は明るくなるだろう。が、それだけだ。自分には何者をも焼き尽くそうと云う欲望がある。これはどうすればよいか。狭い擦硝子の函の中にぼんやりと点ぼされている日暮れ前の灯りにはその欲望がどうすればよいか。嵐来い。そして擦硝子を打破って呉れ。そして油壷を乾いた板庇に吹き上げて呉れ。自分は初めて、火になって燃え立つ。そんな事でもなければ、自分は生涯、擦硝子の中の灯りでいるより仕方ない。
    • 兎に角、もっともっと本気で勉強しなければ駄目だ。自分は非常に窮屈だ。仕事の上でも生活の上でも妙にぎこちない。手も足も出ない。何しろ、もっともっと自由に伸びりと、仕たい事をずんずんやって行けるようにならねば駄目だ。しどろもどろの歩き方でなく、大地を一歩々々踏みつけて、手を振って、いい気分で、進まねばならぬ。急がずに、休まずに。--そうだ、嵐を望む軒燈の油壷では仕方がない。
    • 或る処で諦める事で平安を得たくない。諦めず、捨てず、何時までも追求し、その上で本統の平安と満足を得たい。