「かわいいね」と言われることが何をもたらすのか。可愛いと言われる女性は可愛いけれど初めから可愛かったのだろうか?初めから可愛かったのだろう。でもその可愛さは萌芽だったはずで、人から可愛いと言われたことによって、その特性をもっと伸ばそうという意思が芽生えたはずで、そこからはるか未来に伸びていった努力とその報いとしての可愛いという度重なる評価があり、今日の可愛さに結実しているのだろう。
褒めることによって人は育つ。育つには時間がかかる。時間が経てばやがて人は枯れる。
一日が終わる度、可能性が狭まる。
人には無限の可能性がある。人は常に人を超えようとしている。でもあらゆる方向のどれを選ぶにしたって、時間の縛りがあまりにもでかい。
ブッダシット。時間!時間!いつも時間だ。ブラック企業で朝から晩まで仕事ばかりだ。こんな人生のどこに時間があるというのだ?
昨日妻とつながっているときに綺麗だねと伝えた。最近ふと妻を見た時に、今までは思ってもみなかったけど美しさの片鱗のようなものを感じることがあってそれを伝えた。するとその後のサービスレベルがアップしてとても気持ちよかった。
人は人と共に可能性を見出し、高め合う。人から評価を受けることでその道に火が灯る。僕に対して今まで人からもらったことのある評価を思い返してみた。
「かっこいい」「歌がうまい」「文章がうまい」
そして自分が自分に対して下している評価として「頭が良い」
これらの特性をもっと真剣に考えて伸ばしていくのが義務であると思うようになった。

人生はなんてシンプルなんだろう。特性を伸ばす、個性を伸ばす、それこそが人生なのだ。
ジンメルの「大都市と精神生活」によれば、
個性を伸ばすには大都市が一番だとある。
ブッダシット!東電の糞野郎のせいで関東から尻尾巻いて逃げてしまったことがとても悔やまれる。
都会の女性はとても美しい。どうして都会の女性が美しいのか。その意味を考えれば考えるほど空恐ろしい気持ちになるのである。田舎では人は育たない。娘をこのまま田舎で過ごさせることが果たして彼女のためになるのだろうか。

お世辞という言葉がある。綺麗だねという言葉に対して、それをお世辞かもしれないと考えることは不毛である。物事にプラスの面とマイナスの面があると考えることが間違っている。物事にはプラスの面しかないとすればプラスしかないのだ。2つのことを扱うのは複雑すぎる。うぬぼれかもしれないとか、どうしていつも複数のことを考えてしまうのか。アルコールもなしに酔えない人生などクズである。酔って笑って抱いて狂って回って腰振ってこそ、この素晴らしく美しく尊い世界の中の一部としての人としての生だと思う。