職業としてのAV女優」という本が出ているという記事。これは読んでみたい。

人格障害など深刻な症状を抱えている女性の多くは、親が似たような症状を持つ遺伝だったり性的虐待を受けている。桜一菜も機能不全家庭で育ち、AV女優になる前から自殺未遂を繰り返すような状態であった。

規則正しい生活を送ることができず、身近に信用できる家族や友人を持たない孤独な女性が、勤務日時が自由で高額な風俗や売春を仕事に選ぶのは必然的な流れで、AV女優という選択はその延長にある。要するに不健康な女性は、AV女優になる以前から不健康なのである。逆に承認欲求を満たしてくれて、成功体験を得られるAV女優という仕事は、彼女たちを蝕むどころか、精神的安定を与えているケースの方が多いのだ。

機能不全家庭というのは用語として違和感が強い。機能不全家庭という問題がもしあるならそれは機能不全社会の一部分でしかない。

普通の子がAV女優になる時代になったということを、AV女優になった当人たちの視点ではなく、機能不全社会の側から見てみるとエポックメイキングであることがわかってくる。
AVを純粋に映像記録とすると、これは女性の裸が記録として残され始めたということだ。そして近代のAVの発展を観察するに、その度合はある頂点に達したと思える。
一般女性がごく当たり前にAV女優になる時代。AV業界の問題である需要と供給の問題にピリオドが打たれた。
世の男性の欲望には限りがない。性欲というのは経済が始まるより以遠からの経済のためだ。これはつまり、AVという記録映像の質量は増大の一途ということになる。
女性の裸のコレクション家達を愉しませるだけではない。AVの中の女性は何もはじめから裸なのではない。彼女たちのファッションも記録として残る。AVには男優も登場する。男女の営みの記録となる。
民俗学者などからすれば、これらの資料は垂涎であろう。AVの形式は、明らかに社会的であり、そこには社会のあらゆる側面が投影されているのだ。単なる側面ではない。そこは人間の存在の全ての終着駅であり墓場であるからだ。人が方向を選び進むとき、必ず最後に漂着させられる永遠のワンシーンなのだ。如何な門の前であっても、腰を振り合う男女の影によって閉ざされているのだ。
理性の探求家にとっても興味深い資料となるだろう。その営みの醜さ、滑稽さ、宿命さに吐き気を覚え、それでもなお視線を見切らすことはできないだろう。


次に、AVの代理性について。
チェスは何故楽しいのだろうか。ボードと駒とルールに抽象化されているからだ。そして何よりも、万人に開かれているからだ。
翻って男女間の営みはどうであろうか。そこには抽象化が入る余地がない。欲求と承認のせめぎあいであり、経済的法的倫理的な何よりも人間的な束縛がつきまとう。
なんという簡易な事実であろう。女性に事を頼むとき、そこには常に断られる可能性があるのだ。
なんという厳然な事実であろう。ひとたび女性を得たとき、それ以外の女性との関係性の構築には多大なリスクが伴うのだ。

恋愛をすること、それはあなたにしか出来ないことなのか?子供を作り育てること、それはあなたの仕事なのか?
社会人なら当たり前のことである。上司からはいつも命令されるのだ。自分にしか出来ないことをやるのだ。価値のあることだけをやるのだ。それ以下のルーチンワークなど外注にでもやらせておけばよいのだと。

現にそうなっているではないか。アフリカやインドやブラジルの子供の数は数え終わらない羊のように増え続けている。日本では夫婦が子供がどんどん減っている。

AVに登場する男女は擬似恋愛をしているのだという。これは代理恋愛である。恋愛などあなたの仕事ではないからだ。そんなことは外注しておけばよいのである。

この方式には問題がある。今のAVでは所詮擬似恋愛であって、そこから子供の発生には繋がらない。恋愛を外注した以上、その先の結婚や出産も外注したい。代理して欲しいのが人情である。
そのためにはAVの現場でゴムを利用することをやめてみてはいかがだろうか?