何故都会にいるのか

部屋の窓からは遠くに幹線道路が見える。夜中になっても止むことのないテールランプとヘッドライト。その光の数だけ走り続ける人たちがいるということを思う。青い享楽のためか眠る家族のためかにせよ、その車の中の孤独を思う。前を行くテールランプが、対向車線を閃くヘッドライトが、休むことも出来ずにアクセルとブレーキを踏み込ませる力がある。
こちらに来てすぐに日雇い肉体派遣で同乗させてもらった配送トラックのドライバーさんの言葉を思い出す。精一杯なんだよと言った。冷たい人間なんて一人もいない。でも家族を守るだけでいっぱいいっぱいなんだよ。160cmしかない俺よりも小柄で、片足をびっこ引きながら、俺の何倍もコピー用紙を軽々と運んだ。彼の携帯の待ち受けのまだ小さな女の子たちの笑顔。狭い画面に収まりきらないくらいに。トラックの運転手という仕事のきつさを微塵も感じさせず、俺をたくさん怒鳴ってくれて、がんばれと励ましてくれた。たった一日のたった数時間彼の隣の席で過ごしただけなのに、いまだに心に焼き付いて離れない。何度も何度もつかえない奴だと言われた。こんなことも出来ないのかよいない方がましだよもう帰れよとキレられた。数万円分の荷を駄目にした俺の非だった。最後は泣き出してしまった俺にかけてくれたのがその言葉だった。悔しくて情けなくて、うれしくて泣いた。あまりにも不器用だから人の何倍もがんばれと言われた。また来いと言ってくれた。
今俺も女の子の父親になって、携帯の待ち受けをかけがえのない笑顔にして、彼の言っていたことがしんみりと理解できる。自分に出来ることのあまりの小ささ、その難しさと重さ。
妻には本当に申し訳なく思っている。ろくにサポートも出来ず、知り合いも家族も親戚もいない場所で孤独にさせた。妻に聞いた。どうしてここで暮らしているのか。俺の仕事のためだと。
車を置く駐車場もなく、娘の体調が悪くてもタクシーを呼ばなくてはならない。ハンドルをにぎることさえ出来ない。たとえ不測の事態でも会社から家に帰るために電車に乗らなくてはならない。二時間近くかかってようやく家にたどり着く。相談できる相手もいない。街行く人は他人ばかりだ。ただの他人ではない。何のつながりも感じられない。自分の故郷ではないというだけで、ここまでの距離になるものかと驚く。店でものを買っても何も感じない。どうせ金を払うなら地元に貢献したいと思う。この土地を俺は愛してはいない。愛していない土地で暮らすことがこんなにもつらいなんて思わなかった。妻と娘だけが喜びである。何のつながりもない他人の中で心臓をかきむしるくらいのストレスを抱えてそれでも一歩だって足を止めたことはない。でもそれと同じだけのつらさを妻と娘にも強いていたのだ。俺だけががんばっていたわけじゃない。そう気付いたとき、どうしても考えなければいけなかった。この仕事を続けることに意味があるのか。昇給もボーナスもない。地位も名誉もない。客に自分の名刺を出すことも許されない。どれだけスキルがあろうと人月で押しくるめられて、どこかの無能とセットで販売されて、用が済めばたちまち関係を終わらせられる。どれだけ打ち込んだって、人より多くの成果を出したって、自社の人間は俺のことを何も知らない。何も評価してくれはしない。前のプロジェクトで、俺は燃え尽きるくらいがんばった。だが誰一人そのねぎらいはしてくれなかった。旨そうに酒を飲んでいる連中よりもはるかに少ない給料で泥まみれになっただけだった。
この前妻に夢を語った。俺は思想家になりたいというと冗談に笑われてしまった。でも俺はそれだけが娘の道を照らせると思うんだ。娘の歩く道がどんなに暗くたって絶対に石につまずくことのないように。俺は資産も能力もないから何の財産も残してはやれないに違いない。しかし財産なんかでは人は絶対に幸せにはなれない。俺が幸せなのがその証拠だ。
少し前から高知へ帰ろうという話を妻と始めた。地方には仕事がないかもしれない。でも家族がいる。ふるさとの友たちがいる。同じ土地で暮らす人々がいる。愛する場所で生きていける。愛されて生きていける。昔俺はプログラマになりたかった。スーパープログラマになって見返してやるぞビッグになってやるぞなんて息巻いていた。でも俺はもうそれになった。人に認められてはいない。表に何の成果を残したわけでもない。でも俺は俺を認める。他人に認められることよりも自分に認められることの方がはるかに意義のあることだ。もうなってしまったものに執着していても仕方がない。だから俺は次は思想家を目指す。
道路からいっとき車が途絶える。道路を照らす街灯。その上にはマンションにぽつりと灯る部屋の明かり。別に涙ぐんでいるわけでもないのにかすんで見える。この仕事を始めて視力は0.3とかにまで落ちた。思えばたくさん走ったものだ。今から楽しみでならない。今の俺の目から高知はどう見えるのだろうか。