現代はプログラマの時代か

「おれはもうあきらめちゃったんだ。どう言ったらいいか分からないんだけれどね。要するにおれなんてのは資格がないらしいんだ。つまりね、おかしなたとえだけれど、いまや一つには中島みたいなやつらの時代らしいんだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ。もちろん中島でなくたっていい。つまりなんらかの大いなる弱みとか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。しかもなるべくドギツく汚く大袈裟にだ。小説だけじゃないよ。絵だってなんだってみんなそうなんだ。とにかく売りこむためには、そして時代のお気に入りになるためには、ドギツく汚くてもなんでもいいから、つまり刺激の絶対値さえ大きければなんでもいいんだ。そしてそうなりゃもう誰だって、ほんとうに美しいもの、花とかさ、そういったなにか美しいものを見せるよりはズバリセックスとか汚いものとかをそのままどうだとつきつける方が早いに決まってる。」

赤頭巾ちゃん気をつけて

かえりみて現代は誰の時代だろうか。それはもうどう考えたってプログラマの時代だろうと思う。そして時代の主役たちに共通の役割とは何も生み出さないということだ。主役は環境の消費者たるから主役で、生産者ではない。彼らが活き活きとしているのは傍目にも明らか。そして彼らには圧倒的に知性が欠如していてそのノーテンキさに目を覆うばかりである。主役に唯一欠如しているのは知性だ。彼らはそれに気づいているだろうか。プログラマは現代の暴君だ。誰よりも強く批判にさらされるべきだがどこからも攻撃の矢はない。プログラマにもっと言ってやらねばならぬ。ミミズみたいな脳髄撒き散らすんじゃねぇゴミくずどもが。

漱石先生の鋭い指摘

「して見ると二十世紀の人間は自分と縁の遠い昔の人をidolizeするよりも自分と時を同じくする人を尊敬する、または尊敬し得るようになったのである。
この傾向を極端へ持って行くと自己崇拝ということである。(Individualism, egoism)
(否? むしろ我々はegoismから出立するのではないか?自己崇拝が第一で、他人はむしろ第二に来るのではないか。やむをえないから他を崇拝するのだろう。古人は崇拝しなくても好いが崇拝しても自分の利害に関係しないから別の世界の事だから公平に崇拝するのだろう。今人は同時に生きているから何だ蚊だって悪く見えるのだろう。うちの下女が世間に対してはえらい旦那の欠点を列挙するようなものだろう。
古人崇拝が衰え、今人崇拝が衰え自我崇拝が根本になる。今の日本人が西洋人の名前の新しいのを引張って来るのはこれらを崇拝するよりもこれらを口にするprideを得意とするのだからつまりは他をadmireするの声でなくって自己をadmireするの方便である。」

漱石文明論集より

記憶の統廃合

今日xkm走ったという記録をつける。明日もつける。しかしもしマラソン大会に出場したならば、今日走ったなどという記録をつける必要はなくなる。それまでの過去の記録は全て無意味となる。
一年間つけつづけたジョギングログは、たった一度の大して成果の残せなかった大会の記録で置き換えることができる。
甲子園と共に無為にした青春も最後の甲子園が過ぎることによって全て昇華される。
我々はそうすることで、もともと意味などなかった過去を無意味として片付けることができる。それまで無数のバラバラだったデータを一つに統合して扱うことができるようになる。それはマラソン大会になり甲子園になる。
過去を精算することなしに前進などありえない。扱えるリソースに限りがある以上抱え続ける過去が多いほど身動きができなくなる。
人の忘却機能によって脳の健全性が保たれるといっても果たしてそれがどこまで信用できるものか。もっと積極的に過去を減らしていくべきではないか。過去を精算するためには記録を残すことである。日々の記述をより統合できるカテゴリーとして記録することである。

数年来未解決としてあった課題が今日片付いた。
毎日違う女性と寝ることをライフワークとしブログに女性の写真とともにセックスの記録を残していた人のことだ。
その多くの記録はたった一人の子供で置き換えることができるのだ。彼はその子供が作られるまでその記録を続けなければならないのだ。

男性には強い性欲望がある。その無数性と多様性は大きい。家族を持つことでそれを一つにすることができる。どれだけたくさんの女性と寝ようがどれだけたくさんの衝動に苦悩しようが性は家族に集約されるものだとしたら、その問題はもう解けたのだと思う。

ブッダ

先々週は車のドアを開けるときにドアの角が目の上をえぐっていっぱい出血した。ただでさえ薄いのを気にしている眉毛が皮膚ごと減ってしまい鬱状態に陥った。
さっき支柱が折れた扇風機を拾おうと指を伸ばしたら回転に巻き込まれてあたりに血しぶきが散った。
なんだろう、退屈な人生に色を添えるのが自らの血というのはなんとも虚しい。
リストカット外来http://www.camellia-yokohama.jp/news/information1207.html
という記事を見かけたが、リストカットする連中もきっと退屈な人生に色を添えたくて切り刻んでいるに違いない。
血の赤というのは人間が作り出せる色の中で一番強烈だから魅せられる気持ちもわかる。
人の体をどういぢくったって緑も青も出てこない。
ネットに出回る動画の中には女体を切り刻んでアートを演出する類のものがあるが、ああいうのもなかなか的を射ていると思う。
毎日ブッダに祈っても何も変化の兆しがない。ブッダ、寝ているのですか?

http://www.youtube.com/watch?v=rBn5PX7MDQw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=jdXXfbE3LPs&feature=related
渋谷の映像だそうで。懐かしい。帰りたい。何もかもやり直したい。ブッダ!起きてくださいよ!指が痛い。


あかんこれは癒されるわ
http://www.youtube.com/watch?v=NFhLOYUC9B0&feature=relmfu

坂の途中でばあさんが自転車ごと転倒している所に数人の補助者がたむろっていた。補助者の救急車を呼ぼうかという問いかけにもばあさんは大丈夫というばかり。といって放置して帰るのも気が引けるらしく補助他たちもたちんぼになっていた。
どうもばあさんは坂の途中の墓地に彼岸のおまいりに来たようで目的を達成するまでは帰る気はないらしい。
仕方ないので補助者達に後は自分が面倒を見るからといって帰ってもらった。
ばあさんのしょぼくれた自転車を起こしてやり、よぼよぼの足取りに付き添ってほぼ目の前の墓地までようよう辿り着く。
ばあさんの腰は直角手間まで曲がり、自転車を操縦できていたことが不思議。
目的の墓はさらに上にあるらしく急峻な手すりもない階段がある。
墓の場所を教えてもらい供え物もろもろを墓の手前まで運んでやる。
ばあさんはしきりに感謝し供え物の三割ほどを僕に差し出す。砂糖の入ったぬるいファンタとシュガースポットだらけのバナナをもらっても喜べる年齢ではない。
話が進まないので供え物を受け取る。
せっかくだからばあさんの墓参りを見物してやろうと突っ立っているとばあさんが墓前へ進み出た。
ぬるそうな水の入ったペットボトルをあけて水をかける。
ばあさんは心のなかでしゃべるスキルがないらしく墓に向かってしゃべりだす。
墓の中にいるのはじいさんで、孫が帰ってきてくれていたよと嬉しそうに報告する。
もう少しで自分もそちらへ向かうとか最後のほうは愁嘆場チックになる。
家までちゃんと帰れるのか確認して墓を離れようとしない婆さんを放置して帰った。
手をつないでいるカップルをみて僕もああなりたいと思って
セックスしてるカップルをみて僕もやりたいと思って
子供と手をつないでいる夫婦を見て僕も僕もと思って
墓に水をかけてくれるばあさんを見てそのあまりの可愛らしさに
一人きりで生きていくことなど出来ないことを知った

一つ二つと数え抽象化することで数学の無限の世界が始まる。
男女を抽象化するとトイレの入り口のあたりの記号になるのだろうか。この抽象化にはとても世界が始まる感じがしない。
抽象化できない世界で無限を扱うにはどうすればよいのか。その世界で何かを見つけるのは素数を見るけることよりもはるかに難しい。
どんなに数えても比べても心はさまよう。全ての選択肢が、全ての存在がここでは選択公理になる。
花火大会が終わって巻き込まれた渋滞の中。たくさんの女性が歩道を流れる。いつまでも進まない車の列。たくさんのカップルが歩道をかすめる。
銀河英雄伝のヤンが三十歳になることにふてくされるシーン。若さを失うということがどういうことなのかよくわからない。
美しいものを手に入れたい。数式やたくさんの若い女性とセックスしたい。そういうことが若さだったんだね。
この世界で無限を扱うとは多くの女性とセックスすることであると定義したい。それだけがこの世界を抽象化する手段である。
快楽を得るにはどうすればよいのか。お金、見た目、能力、若さ、そういったもの全てを高めることしかない。
この考え方は銀河英雄伝のポプランから学んだ。この本にもっと若い時に出会っておけばよかったのに残念である。

「かわいいね」と言われることが何をもたらすのか。可愛いと言われる女性は可愛いけれど初めから可愛かったのだろうか?初めから可愛かったのだろう。でもその可愛さは萌芽だったはずで、人から可愛いと言われたことによって、その特性をもっと伸ばそうという意思が芽生えたはずで、そこからはるか未来に伸びていった努力とその報いとしての可愛いという度重なる評価があり、今日の可愛さに結実しているのだろう。
褒めることによって人は育つ。育つには時間がかかる。時間が経てばやがて人は枯れる。
一日が終わる度、可能性が狭まる。
人には無限の可能性がある。人は常に人を超えようとしている。でもあらゆる方向のどれを選ぶにしたって、時間の縛りがあまりにもでかい。
ブッダシット。時間!時間!いつも時間だ。ブラック企業で朝から晩まで仕事ばかりだ。こんな人生のどこに時間があるというのだ?
昨日妻とつながっているときに綺麗だねと伝えた。最近ふと妻を見た時に、今までは思ってもみなかったけど美しさの片鱗のようなものを感じることがあってそれを伝えた。するとその後のサービスレベルがアップしてとても気持ちよかった。
人は人と共に可能性を見出し、高め合う。人から評価を受けることでその道に火が灯る。僕に対して今まで人からもらったことのある評価を思い返してみた。
「かっこいい」「歌がうまい」「文章がうまい」
そして自分が自分に対して下している評価として「頭が良い」
これらの特性をもっと真剣に考えて伸ばしていくのが義務であると思うようになった。

人生はなんてシンプルなんだろう。特性を伸ばす、個性を伸ばす、それこそが人生なのだ。
ジンメルの「大都市と精神生活」によれば、
個性を伸ばすには大都市が一番だとある。
ブッダシット!東電の糞野郎のせいで関東から尻尾巻いて逃げてしまったことがとても悔やまれる。
都会の女性はとても美しい。どうして都会の女性が美しいのか。その意味を考えれば考えるほど空恐ろしい気持ちになるのである。田舎では人は育たない。娘をこのまま田舎で過ごさせることが果たして彼女のためになるのだろうか。

お世辞という言葉がある。綺麗だねという言葉に対して、それをお世辞かもしれないと考えることは不毛である。物事にプラスの面とマイナスの面があると考えることが間違っている。物事にはプラスの面しかないとすればプラスしかないのだ。2つのことを扱うのは複雑すぎる。うぬぼれかもしれないとか、どうしていつも複数のことを考えてしまうのか。アルコールもなしに酔えない人生などクズである。酔って笑って抱いて狂って回って腰振ってこそ、この素晴らしく美しく尊い世界の中の一部としての人としての生だと思う。