現代はプログラマの時代か

「おれはもうあきらめちゃったんだ。どう言ったらいいか分からないんだけれどね。要するにおれなんてのは資格がないらしいんだ。つまりね、おかしなたとえだけれど、いまや一つには中島みたいなやつらの時代らしいんだよ。つまり田舎から東京に出てきて、いろんなことにことごとくびっくりして深刻に悩んで、おれたちに対する被害妄想でノイローゼになって、そしてあれこれ暴れては挫折し暴れては失敗し、そして東京というか現代文明の病弊のなかで傷ついた純粋な魂の孤独なうめき声なんかあげるんだ。もちろん中島でなくたっていい。つまりなんらかの大いなる弱みとか欠点とか劣等感を持っていてだな、それを頑張って克服するんじゃなくて逆に虫めがねでオーバーに拡大してみせればいい。しかもなるべくドギツく汚く大袈裟にだ。小説だけじゃないよ。絵だってなんだってみんなそうなんだ。とにかく売りこむためには、そして時代のお気に入りになるためには、ドギツく汚くてもなんでもいいから、つまり刺激の絶対値さえ大きければなんでもいいんだ。そしてそうなりゃもう誰だって、ほんとうに美しいもの、花とかさ、そういったなにか美しいものを見せるよりはズバリセックスとか汚いものとかをそのままどうだとつきつける方が早いに決まってる。」

赤頭巾ちゃん気をつけて

かえりみて現代は誰の時代だろうか。それはもうどう考えたってプログラマの時代だろうと思う。そして時代の主役たちに共通の役割とは何も生み出さないということだ。主役は環境の消費者たるから主役で、生産者ではない。彼らが活き活きとしているのは傍目にも明らか。そして彼らには圧倒的に知性が欠如していてそのノーテンキさに目を覆うばかりである。主役に唯一欠如しているのは知性だ。彼らはそれに気づいているだろうか。プログラマは現代の暴君だ。誰よりも強く批判にさらされるべきだがどこからも攻撃の矢はない。プログラマにもっと言ってやらねばならぬ。ミミズみたいな脳髄撒き散らすんじゃねぇゴミくずどもが。