ブッダ

先々週は車のドアを開けるときにドアの角が目の上をえぐっていっぱい出血した。ただでさえ薄いのを気にしている眉毛が皮膚ごと減ってしまい鬱状態に陥った。
さっき支柱が折れた扇風機を拾おうと指を伸ばしたら回転に巻き込まれてあたりに血しぶきが散った。
なんだろう、退屈な人生に色を添えるのが自らの血というのはなんとも虚しい。
リストカット外来http://www.camellia-yokohama.jp/news/information1207.html
という記事を見かけたが、リストカットする連中もきっと退屈な人生に色を添えたくて切り刻んでいるに違いない。
血の赤というのは人間が作り出せる色の中で一番強烈だから魅せられる気持ちもわかる。
人の体をどういぢくったって緑も青も出てこない。
ネットに出回る動画の中には女体を切り刻んでアートを演出する類のものがあるが、ああいうのもなかなか的を射ていると思う。
毎日ブッダに祈っても何も変化の兆しがない。ブッダ、寝ているのですか?

http://www.youtube.com/watch?v=rBn5PX7MDQw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=jdXXfbE3LPs&feature=related
渋谷の映像だそうで。懐かしい。帰りたい。何もかもやり直したい。ブッダ!起きてくださいよ!指が痛い。


あかんこれは癒されるわ
http://www.youtube.com/watch?v=NFhLOYUC9B0&feature=relmfu

坂の途中でばあさんが自転車ごと転倒している所に数人の補助者がたむろっていた。補助者の救急車を呼ぼうかという問いかけにもばあさんは大丈夫というばかり。といって放置して帰るのも気が引けるらしく補助他たちもたちんぼになっていた。
どうもばあさんは坂の途中の墓地に彼岸のおまいりに来たようで目的を達成するまでは帰る気はないらしい。
仕方ないので補助者達に後は自分が面倒を見るからといって帰ってもらった。
ばあさんのしょぼくれた自転車を起こしてやり、よぼよぼの足取りに付き添ってほぼ目の前の墓地までようよう辿り着く。
ばあさんの腰は直角手間まで曲がり、自転車を操縦できていたことが不思議。
目的の墓はさらに上にあるらしく急峻な手すりもない階段がある。
墓の場所を教えてもらい供え物もろもろを墓の手前まで運んでやる。
ばあさんはしきりに感謝し供え物の三割ほどを僕に差し出す。砂糖の入ったぬるいファンタとシュガースポットだらけのバナナをもらっても喜べる年齢ではない。
話が進まないので供え物を受け取る。
せっかくだからばあさんの墓参りを見物してやろうと突っ立っているとばあさんが墓前へ進み出た。
ぬるそうな水の入ったペットボトルをあけて水をかける。
ばあさんは心のなかでしゃべるスキルがないらしく墓に向かってしゃべりだす。
墓の中にいるのはじいさんで、孫が帰ってきてくれていたよと嬉しそうに報告する。
もう少しで自分もそちらへ向かうとか最後のほうは愁嘆場チックになる。
家までちゃんと帰れるのか確認して墓を離れようとしない婆さんを放置して帰った。
手をつないでいるカップルをみて僕もああなりたいと思って
セックスしてるカップルをみて僕もやりたいと思って
子供と手をつないでいる夫婦を見て僕も僕もと思って
墓に水をかけてくれるばあさんを見てそのあまりの可愛らしさに
一人きりで生きていくことなど出来ないことを知った

一つ二つと数え抽象化することで数学の無限の世界が始まる。
男女を抽象化するとトイレの入り口のあたりの記号になるのだろうか。この抽象化にはとても世界が始まる感じがしない。
抽象化できない世界で無限を扱うにはどうすればよいのか。その世界で何かを見つけるのは素数を見るけることよりもはるかに難しい。
どんなに数えても比べても心はさまよう。全ての選択肢が、全ての存在がここでは選択公理になる。
花火大会が終わって巻き込まれた渋滞の中。たくさんの女性が歩道を流れる。いつまでも進まない車の列。たくさんのカップルが歩道をかすめる。
銀河英雄伝のヤンが三十歳になることにふてくされるシーン。若さを失うということがどういうことなのかよくわからない。
美しいものを手に入れたい。数式やたくさんの若い女性とセックスしたい。そういうことが若さだったんだね。
この世界で無限を扱うとは多くの女性とセックスすることであると定義したい。それだけがこの世界を抽象化する手段である。
快楽を得るにはどうすればよいのか。お金、見た目、能力、若さ、そういったもの全てを高めることしかない。
この考え方は銀河英雄伝のポプランから学んだ。この本にもっと若い時に出会っておけばよかったのに残念である。

「かわいいね」と言われることが何をもたらすのか。可愛いと言われる女性は可愛いけれど初めから可愛かったのだろうか?初めから可愛かったのだろう。でもその可愛さは萌芽だったはずで、人から可愛いと言われたことによって、その特性をもっと伸ばそうという意思が芽生えたはずで、そこからはるか未来に伸びていった努力とその報いとしての可愛いという度重なる評価があり、今日の可愛さに結実しているのだろう。
褒めることによって人は育つ。育つには時間がかかる。時間が経てばやがて人は枯れる。
一日が終わる度、可能性が狭まる。
人には無限の可能性がある。人は常に人を超えようとしている。でもあらゆる方向のどれを選ぶにしたって、時間の縛りがあまりにもでかい。
ブッダシット。時間!時間!いつも時間だ。ブラック企業で朝から晩まで仕事ばかりだ。こんな人生のどこに時間があるというのだ?
昨日妻とつながっているときに綺麗だねと伝えた。最近ふと妻を見た時に、今までは思ってもみなかったけど美しさの片鱗のようなものを感じることがあってそれを伝えた。するとその後のサービスレベルがアップしてとても気持ちよかった。
人は人と共に可能性を見出し、高め合う。人から評価を受けることでその道に火が灯る。僕に対して今まで人からもらったことのある評価を思い返してみた。
「かっこいい」「歌がうまい」「文章がうまい」
そして自分が自分に対して下している評価として「頭が良い」
これらの特性をもっと真剣に考えて伸ばしていくのが義務であると思うようになった。

人生はなんてシンプルなんだろう。特性を伸ばす、個性を伸ばす、それこそが人生なのだ。
ジンメルの「大都市と精神生活」によれば、
個性を伸ばすには大都市が一番だとある。
ブッダシット!東電の糞野郎のせいで関東から尻尾巻いて逃げてしまったことがとても悔やまれる。
都会の女性はとても美しい。どうして都会の女性が美しいのか。その意味を考えれば考えるほど空恐ろしい気持ちになるのである。田舎では人は育たない。娘をこのまま田舎で過ごさせることが果たして彼女のためになるのだろうか。

お世辞という言葉がある。綺麗だねという言葉に対して、それをお世辞かもしれないと考えることは不毛である。物事にプラスの面とマイナスの面があると考えることが間違っている。物事にはプラスの面しかないとすればプラスしかないのだ。2つのことを扱うのは複雑すぎる。うぬぼれかもしれないとか、どうしていつも複数のことを考えてしまうのか。アルコールもなしに酔えない人生などクズである。酔って笑って抱いて狂って回って腰振ってこそ、この素晴らしく美しく尊い世界の中の一部としての人としての生だと思う。

職業としてのAV女優」という本が出ているという記事。これは読んでみたい。

人格障害など深刻な症状を抱えている女性の多くは、親が似たような症状を持つ遺伝だったり性的虐待を受けている。桜一菜も機能不全家庭で育ち、AV女優になる前から自殺未遂を繰り返すような状態であった。

規則正しい生活を送ることができず、身近に信用できる家族や友人を持たない孤独な女性が、勤務日時が自由で高額な風俗や売春を仕事に選ぶのは必然的な流れで、AV女優という選択はその延長にある。要するに不健康な女性は、AV女優になる以前から不健康なのである。逆に承認欲求を満たしてくれて、成功体験を得られるAV女優という仕事は、彼女たちを蝕むどころか、精神的安定を与えているケースの方が多いのだ。

機能不全家庭というのは用語として違和感が強い。機能不全家庭という問題がもしあるならそれは機能不全社会の一部分でしかない。

普通の子がAV女優になる時代になったということを、AV女優になった当人たちの視点ではなく、機能不全社会の側から見てみるとエポックメイキングであることがわかってくる。
AVを純粋に映像記録とすると、これは女性の裸が記録として残され始めたということだ。そして近代のAVの発展を観察するに、その度合はある頂点に達したと思える。
一般女性がごく当たり前にAV女優になる時代。AV業界の問題である需要と供給の問題にピリオドが打たれた。
世の男性の欲望には限りがない。性欲というのは経済が始まるより以遠からの経済のためだ。これはつまり、AVという記録映像の質量は増大の一途ということになる。
女性の裸のコレクション家達を愉しませるだけではない。AVの中の女性は何もはじめから裸なのではない。彼女たちのファッションも記録として残る。AVには男優も登場する。男女の営みの記録となる。
民俗学者などからすれば、これらの資料は垂涎であろう。AVの形式は、明らかに社会的であり、そこには社会のあらゆる側面が投影されているのだ。単なる側面ではない。そこは人間の存在の全ての終着駅であり墓場であるからだ。人が方向を選び進むとき、必ず最後に漂着させられる永遠のワンシーンなのだ。如何な門の前であっても、腰を振り合う男女の影によって閉ざされているのだ。
理性の探求家にとっても興味深い資料となるだろう。その営みの醜さ、滑稽さ、宿命さに吐き気を覚え、それでもなお視線を見切らすことはできないだろう。


次に、AVの代理性について。
チェスは何故楽しいのだろうか。ボードと駒とルールに抽象化されているからだ。そして何よりも、万人に開かれているからだ。
翻って男女間の営みはどうであろうか。そこには抽象化が入る余地がない。欲求と承認のせめぎあいであり、経済的法的倫理的な何よりも人間的な束縛がつきまとう。
なんという簡易な事実であろう。女性に事を頼むとき、そこには常に断られる可能性があるのだ。
なんという厳然な事実であろう。ひとたび女性を得たとき、それ以外の女性との関係性の構築には多大なリスクが伴うのだ。

恋愛をすること、それはあなたにしか出来ないことなのか?子供を作り育てること、それはあなたの仕事なのか?
社会人なら当たり前のことである。上司からはいつも命令されるのだ。自分にしか出来ないことをやるのだ。価値のあることだけをやるのだ。それ以下のルーチンワークなど外注にでもやらせておけばよいのだと。

現にそうなっているではないか。アフリカやインドやブラジルの子供の数は数え終わらない羊のように増え続けている。日本では夫婦が子供がどんどん減っている。

AVに登場する男女は擬似恋愛をしているのだという。これは代理恋愛である。恋愛などあなたの仕事ではないからだ。そんなことは外注しておけばよいのである。

この方式には問題がある。今のAVでは所詮擬似恋愛であって、そこから子供の発生には繋がらない。恋愛を外注した以上、その先の結婚や出産も外注したい。代理して欲しいのが人情である。
そのためにはAVの現場でゴムを利用することをやめてみてはいかがだろうか?

娘がボールをキャッチできるようになった。観察していると確かにできていて、しかもよそ見をしつキャッチできていた。感慨深い。

ノルウェーで70人以上殺した犯人が、ノルウェーでは死刑がなく最高刑でも懲役21年という縛りのせいで、理不尽に罪が軽いという記事を読んでちょっと思った。
もしこの犯人の究極目標が、この縛りの撤廃だったとしたらどうなのだろう。
犯人は死刑存置論者で、終身刑すらもないというノルウェーの最新鋭の法制度にそれこそ人生をかけて闘いを挑んだということになる。
もちろんこの犯人は意図の達成のために、21年後に出所した後で、同じかそれ以上の殺戮を行うのだろう。
日本の死刑反対論者たちも、同程度の根性があればきっと死刑を廃止できるだろう。
ノルウェーが心配になる。この件で青天井に殺戮が可能ということが判明してしまったので、世界中からシリアルキラーが我こそはと参じるのではないか。

新しいものに飽きたと思う。
例えばこんな話が聞かれる。結婚して子供が出来てしまうと、女性との新しい出会いにときめかなくなると。合コンだとかに誘われても面倒くさいだけだと。ある既婚男性は逆ナンパをされたけれどネットゲームを優先したという話も聞いた。面倒くさいのだ。

私たちは新しいものにアンテナを持つ。その感度を鈍らせることに劣等感を持つ。新しいことは素晴らしいことだと、新しきものは良きものだというアプリオリな認識を持つ。
昨日の新聞はまだ置かれているかもしれないけれど先週の新聞はもうないだろうという共通認識がある。

開かれた世界というイメージにすがりつく。開放性という檻の中。
新宿での牌の音。渋谷の雑踏。私はそこで誰一人見知った顔に出会ったことはなかった。常に新しさがあった。ジュンク堂に行けば最新の書籍に触れられ、山手線に乗れば見慣れない寝崩れた若者がいた。

やっとわかったのだ。新しさは人を導く灯籠だとはしても、もし導かれた先に留まる権利を得られたなら、そこに居続けることは幸福なのだ。

地方の片田舎での暮らし。新しいことなど何もない。まるで檻の中。
でもこれは檻だったのだろうか。檻ではなくて私の部屋ではなかったのか。

過去に光を当てようというのとは違う。過去そのものが光なのであって、それ自体がこちらへ向かって差し込んでくるものなのだ。

新しいこと。それはなんて陳腐なのだろう。それは光なんかではない。悪魔のささやきである。人が真っ先に決別しなければならないものだ。

どうすれば新しさから逃れることが出来るのだろうか。ひとつには家庭を持つことだろう。同じ町で、同じ場所で生き続けることだろう。流動性ではなく停滞の中に身を置き続けることだろう。

今日も同じ布団の中で眠る。冬の寒さから比べれば、布団の中はずいぶん温かい。それは春が近づいているからだろうか。隣で眠る家族の体温からだろうか。それだけではないのだ。昨日の布団の中の暖かさなのだ。昨日との差異の無さが、記憶の中の同一性が温かいのだ。

新商品という言葉がある。これに新しさの定義がある。私達が普段触れている新しさとは提案なのだ。人から提案された新しさなのだ。それは私のために用意された新しさなのだ。提案されたニュース、商品、技術、それら全てはあまりにも光り輝いている。なんて鬱陶しい光なのか。

私に向けられた新しさにはなんの興味もない。なんの価値もない。ニュースも商品も議論も技術もクソである。
本当に価値のあるものとは、私に向けられなかったものにこそある。例えばそれは子供である。日々勝手に成長していくその知性。それは提案されたものではない。子供の成長は新しさでは測れない。私はそれに戸惑う。その戸惑いはずっと、新しさよりもはるかに新しいものなのだと思う。