新しいものに飽きたと思う。
例えばこんな話が聞かれる。結婚して子供が出来てしまうと、女性との新しい出会いにときめかなくなると。合コンだとかに誘われても面倒くさいだけだと。ある既婚男性は逆ナンパをされたけれどネットゲームを優先したという話も聞いた。面倒くさいのだ。

私たちは新しいものにアンテナを持つ。その感度を鈍らせることに劣等感を持つ。新しいことは素晴らしいことだと、新しきものは良きものだというアプリオリな認識を持つ。
昨日の新聞はまだ置かれているかもしれないけれど先週の新聞はもうないだろうという共通認識がある。

開かれた世界というイメージにすがりつく。開放性という檻の中。
新宿での牌の音。渋谷の雑踏。私はそこで誰一人見知った顔に出会ったことはなかった。常に新しさがあった。ジュンク堂に行けば最新の書籍に触れられ、山手線に乗れば見慣れない寝崩れた若者がいた。

やっとわかったのだ。新しさは人を導く灯籠だとはしても、もし導かれた先に留まる権利を得られたなら、そこに居続けることは幸福なのだ。

地方の片田舎での暮らし。新しいことなど何もない。まるで檻の中。
でもこれは檻だったのだろうか。檻ではなくて私の部屋ではなかったのか。

過去に光を当てようというのとは違う。過去そのものが光なのであって、それ自体がこちらへ向かって差し込んでくるものなのだ。

新しいこと。それはなんて陳腐なのだろう。それは光なんかではない。悪魔のささやきである。人が真っ先に決別しなければならないものだ。

どうすれば新しさから逃れることが出来るのだろうか。ひとつには家庭を持つことだろう。同じ町で、同じ場所で生き続けることだろう。流動性ではなく停滞の中に身を置き続けることだろう。

今日も同じ布団の中で眠る。冬の寒さから比べれば、布団の中はずいぶん温かい。それは春が近づいているからだろうか。隣で眠る家族の体温からだろうか。それだけではないのだ。昨日の布団の中の暖かさなのだ。昨日との差異の無さが、記憶の中の同一性が温かいのだ。

新商品という言葉がある。これに新しさの定義がある。私達が普段触れている新しさとは提案なのだ。人から提案された新しさなのだ。それは私のために用意された新しさなのだ。提案されたニュース、商品、技術、それら全てはあまりにも光り輝いている。なんて鬱陶しい光なのか。

私に向けられた新しさにはなんの興味もない。なんの価値もない。ニュースも商品も議論も技術もクソである。
本当に価値のあるものとは、私に向けられなかったものにこそある。例えばそれは子供である。日々勝手に成長していくその知性。それは提案されたものではない。子供の成長は新しさでは測れない。私はそれに戸惑う。その戸惑いはずっと、新しさよりもはるかに新しいものなのだと思う。