人はどこにもいない

夕方、町をぬけて図書館と食事へと向かうとき、私はうれしそうにあたりかまわず嗅ぎまわるご機嫌な子犬のように感覚を研ぎ澄ます。巨大な都市の鼓動が聴こえてくるようだ。全身の毛穴から雑踏の緊張感が伝わってくる。しかし、何千という人びとの顔に視線を向けてみても、そこには印象に残るものは何もない。顔が虚ろなのだ。喜びの表情もなければ、哀しみの表情もない。何かに気を取られ、悩みをかかえている様子も見られない。不安や期待を表している顔もない。

これはとても共感できる。昔のアメリカも今の日本と一緒だったのか。試しに街の雑踏で目をすましてみるといい。そこには引かれた線の上をなぞって歩くだけの無機物がうじゃうじゃしている。生きている人間なんて自分ひとりぼっちだという確信が得られる。こういう考えを傲慢だと思う人もいるかもしれない。僕はこれは社会が悪いと思っている。彼らだって、家に帰れば愛する家族があり、子どもに向かって他の誰にも見せたことのないような笑顔をにじませているだろう。暗い部屋でギターでもかき鳴らしてたまに天井を見上げたりしているかもしれない。みんな本当は生きているんだ。でも街はそれを許さない。そういう街が設計され構築され、そこでしか人が生きられないということが問題なのだ。またこれとは逆に、みんなセックスを部屋の中でするようになってしまった。昔みたいに祭りや儀式で乱交なんてのはなくなった。今では高級ホテルのスイートルームで乱交なんて時代になってしまった。これはよくない。みんなものごとを密室に持ち込み過ぎる。密室で起こったことは名探偵でもいない限り明らかになることはない。そうやって秘匿されていくのは人間の歴史であり私たちの風俗である。人が人であることを忘れないためにも、後世へつなげていくためにも、公然乱交は復活すべきだ。