二日目

ホッファーは若い頃に読んだドストエフスキーよりも、成熟してから読んだドストエフスキーの方が多くのことを理解できたし引き出せたと書いてある。文章のいたるところにちりばめられた芸術のトリックに気付けるようになったと。これはうなずける。
レベルが低いうちに名典にチャレンジしても得られるものは少ない。でもそうやって無駄を積み重ねるしかレベルアップする方法はない。私も生意気に社会契約論や君主論を読んでみたものの何を引き出せたやら。読みかけのプロ倫も正直によくわからん。
最近の小説は一度読んだらもう読まないという人も多いし実際それで有効だ。読む人のレベルに関わらず同じ表情しか見せない。それは書く側が読者に理解してもらおうと書いているからでもある。噛み砕いて、抽象度を下げて、肉汁も果汁も全部しぼりとったからっからのメニュー。読者のレベルを引き上げてやろうという気概のものは少ない。今の人たちは理解できないのを作者のせいにする傾向がある。作者がものごとを理解していないからよくわからない書き方になっているのでそれが悪いと。実際吉本隆明共同幻想論の序で書いてある。どんなに難しい概念も提唱者の理解度と工夫を上げることで究極的には簡単に出来ると。最近の共同幻想論はそうやってとても読みやすく理解しやすくしましたよと書いてある。それにしてはさっぱりわからんのだが。とにかく読者は理解しやすいものをあえて選んで理解して悦ってるという悪循環にある。書というのは理解できなくて苦しんで、中学生の頃の初恋のような、叶わないという絶望と、それでも何かへと立ち向かっていく勇気と、全ての経験の圧縮であるべきなのに。

それは女にも言える。ギャルどもは「私をレベルアップさせてくれる男が好き」ではない。「私を楽しませてくれる男が好き」なのだ。なんだそれは。そんなんだからいつまで経っても白痴なのだ。楽しさという快楽しか求めていない。求められない。ヤリマンでなくて何であろう。女に名などいらん。白痴だ白痴。もうボタンでもつけてマタでも開いておればよいのだ。「アタシとやりたかったら聖書でもそらんじてみろ」ぐらいの勢いが欲しいものだ。