冬子さんの詩

吉本隆明詩全集1巻を買った。案の定、詩を読むのには相応のスキルが要るようで、ちんぷんかんぷんが多い。ただ通勤電車の中で読んでいたりすると、不思議に心が落ち着く。自由に文章を書こうと思ったらエッセイ風になる。エッセイより短くしようと思ったら意味として通じないつぶやきになる。その中間として詩というのはずいぶん魅力的に見える。ジュンク堂の詩集のコーナーはひっそりと壁際にあった。あまり人気はないのかもしれない。詩を書いている人なんて周りに見かけない。ネットでもめったに見ない。言葉を扱うとき、どうしても論理に気を取られる。感情がまずあって、それをフォーマットして書き出さざるをえない。加工する過程で消失するもの。フィルターを通してはいけない思いだってある。

吉本隆明詩集1巻からとても気に入った詩を引用する。彼が19歳のときの詩だ。

轟く山
なでらの雪がわれる時 山は轟きわたりました
四辺の山や 丘の上や
蒼い空の一角や そんな太陽系や
緑の穴や それから郭公の墓です
僕はその日は 朝起きてから
友達の悪いうわさばかり聴きました
愛や 憎悪や 吹雪や
落とし穴や 犬の足あとや
そんな万象が 生きてゐました
天に高く鳴ってゐるのは
    透明な風でした

美しいと思った。特に最後の箇所を読んだときミステリーでトリックに騙されたときと同種の痺れのようなものを感じた。
空の高い所にも風が吹いているなんて考えたこともなかった。詩はいいものだ。自分の感情も風景も出来事も全て同じキャンバスに描くことが出来る。混ざり合うことが出来る。どこから始めてもどこで終わってもいい。詩で保存しておけば後から多くのことを引き出せる。そのとき考えていたことだけじゃなくてそのときの自分では描ききれなかったものまでも溶かし込むことが出来る。


そういえば一人詩人を知っている。新宿西口駅前の柱の影で、いつも立って詩集を売っている女がいる。麻雀に負けて早めに切り上げるときによく見かける。「わたしの志集かって下さい。300円」。最初「わたしを買ってください」と読めてしまってショックを受けていたがよく見ると「詩集」を売っている。「志集」としているのがセンスを感じる。へんな奴がいるなと面白がって一度も買ったことがない。友人がそれを買ったらしく、読んでみるとなかなかに歴史があるもののようだ。たくさんのシリーズがあって、エキセントリックな内容だったらしい。読みたくなったのでちょっど見せてくれとメールしたら、「ルームメイトに捨てられた」と返ってきた。詩は理解されていないなあとここでも思った。次麻雀に行くときは絶対に買おうと誓う。で、この不思議な女のことをぐぐってみると興味深い記述があった。二十五年前にも同じように新宿西口で詩集を売っている女性がいたそうだ。おいおいちょっとしたミステリーである。そしてこの記事を読んでみてくれ。なんと、同じ女性だというのだ。二十年以上前からずっとそうしているのだと。

私の志集

彼女の名は「冬子」さん。
夜の新宿駅の西口に立って詩集を売っている。
首から「私の志集」と書かれたボードを下げて、虚空を見つめたまま立っている。1冊300円。詩集では無くて「志集」なのだ。
僕が初めてこの女性を見たのはかれこれ20年程前になる。

中略

月日は更に流れる・・・
そして4年ほど前・・・新宿西口の夜の雑踏の中、柱の陰に佇む女性を見かけた。
冬子さんだった・・信じられないことに、20年前と同じ服装、同じ髪型、同じ視線で同じボードを下げて立っていた。容姿は殆ど変わっていない(近くで良ぉ〜く見たら違うのかも知れないけど・・)。
僕はちょっと感動して、近付いていったが、
「えっ?・・俺・・どうしよう・・詩集買ってみよっかな?でもなぁ〜・・『私も詩を書く者です』とか言うのかよ・・やっぱやめとこう・・」
と、頭の中で響き渡る標準語に阻まれて、彼女の脇を素通りしていった。

俺は今ちょっとした感動を覚えている。ほんものがいた。俺は妻に明日の朝こう言うつもりだ。
「今夜麻雀に行って来る。新宿にほんものがいるから会いに行って来る。」
妻はキレかけてこう言うだろう。何しろうちにはもう金がない。
「金がない。麻雀と会いに行くこととまったく関係がない。」
しかしそれは違うのだ。思えば冬子さんは俺がこっちへ来てすぐの頃にも何度も見かけたのだ。すぐそばにいたほんものに気付かなかったのだ。だから続きはそこから始めなくちゃならない。麻雀に負けてその帰り道で詩集を買うのだ。

ちょっと詩の勉強をしようと思う。