公園

コンビニで朝食を買って帰る途中の公園で、小学生低学年くらいの男の子が二人、ボールの蹴りあいっこをしていた。
片方が蹴ったボールが高すぎて、大きくバウンドしてしまい受け側の男の子の頭上を飛び越え、道路をちょうど歩いていた俺のところにサッカーボールが来た。
サッカーは苦手だが足でボールを受け止めて、手で拾って軽く投げてやった。礼のひとつもよこさなかった。クソガキめ。手を服で拭いて歩き出す。
クソガキに限らず、この公園の利用者は多種にわたる。
例えば平日の朝、遅刻しない時間に起きた場合、公園ではジジイが地面を幅の広いほうきのようなものでならしている。最初は何をやっているんだボケてるのかと思ったが、その理由は遅刻する日にわかる。
遅刻する時間に起きた場合、公園ではジジイにババアも加わってゲートボールがとりおこなわれている。毎日だ。
平日の午前はゲートボールに使われているが、これが土日になるとそうでもない。土日の朝はジジイがベンチでひなたぼっこしている。
会社を諸事情でサボった日の昼過ぎだと、公園は主婦とそのガキで埋め尽くされている。主婦どもは公園の入り口付近でくだらないおしゃべりに興じ、ガキどもは縦横無尽に走り回っている。
もう少し早い時間だと、ジジイが野菜を売りに来ていたりする。土日だと家族連れが遊びに来たりする。
午後も遅めになると何かしら絶望したサラリーマンの憩いの場となる。
夜になるとカップルや不良の溜まり場になる。終電で帰るような時間帯でも誰かしら不良がたむろしている。
さらに規模の大きい公園だとホームレスに住む場所が提供される。

公園はカップルにファミリーにクソガキからジジイにホームレスやホープレスにまであらゆる人々に共通のプラットフォームとなっている。
公園も一種のハコモノだが、公民館や文化会館や美術館的なものとはずいぶん立ち位置が違うようだ。なぜ違うのかといえば公園のオープン性にあるのだろう。
誰でも入ることが出来、誰からも見ることが出来る。そこで何をやってもよい。これはまさにジットレインが言うところの肥沃なプラットフォームなのだ。ハコモノで成功している唯一の例だといっていい。
公園とはただ場所を提供するだけであるのに、文化や芸術を指向して計画された建物よりはるかにメリットあるものとなっている。
これからの時代は囲い込みの終わっていく時代といえる。クローズドな環境を提供しているような業者は生き残れない。
そうやって経済圏の境界がなくなり、やがては国境もなくなっていくのだろう。ネットのパワーはすさまじく、あらゆる人々に均質化への道をつけた。ネットでのコメントを見ているとほとんどの人が同じ思考回路を搭載するようになってきていることに気付く。思考や感情だけでなくスキルも均質化している。
かつて様々な君主が統一を試みた。彼らの誰もがなしえなかった世界の統一をなすのが、誰か一人の強大な権力者ではなく、無数の人々の無意識の総体というのはずいぶん興味深い話である。