ちゃんとはたらきましょう

「ニッポンの思想」という本を読んだ。読書メーターでも読んだ本リストに入れている人が150近くいて、結構なヒットだといえる。本中でも、思想的な同人誌の売れ行きがそんなに悪くないというのが書かれているし、東浩紀の最近のブログを見ても、何がしか討論会みたいなものを催せば数百人くらいの会場はいっぱいになる的なことが書かれていた。ニューアカブームというものの発端となった「構造と力」が発売されたのは私が生まれた1983年9月のようだ。ニューアカなんて言葉初めて知った。ブームといったって、物好きな連中の間でブーメランの投げあいっこしてる程度の規模だと思うがどうなのだろう。ワンピースほど膾炙してるとはいえないだろう。この本でも、思想なんて何の役にも立たないと書かれているし、実際その通りで、利益を得ているのはペンや口をすべらせている論壇の連中だけであって、思想を消費している人たちというのは、アニメに入れ込んで無意味な消費で盛り上がっている奴隷連中と同じ匂いしかしないし、かわいそうとしかいえない。これまた本中で触れられているが、思想論壇の連中は単に誰が一番頭がいいかを競い合っているだけで、思想の消費者というのは、むしろ誰が一番頭いいか決定戦という番組を愛していて、ドラゴンボールとかワンピースを読むときに、子供たちが、誰が一番強いんだろうとワクワクしているのと一緒で、とてもかわいそうである。そりゃあ何も生まれないわけだ。こういう無意味な本を読むと、むしろ技術書を読むときに身が入るので、そういう意味ではとてもよい本だ。だが世の中には取り違えをしてしまう人もいて、ゼロアカ道場という思想家批評家を育てる催しがあったらしいが、自らもテレビの中に入って誰が頭一番いいか決定戦に参戦してしまうという悲劇的な結末を迎えてしまう事例もあったようだ。子供たちがベルトをつけて変身といったり、両手をくっつけて前に突き出してかめはめはといったりしているのは子供だから微笑ましいのであって、大人になってもそんなことをやっていたらやっぱり微笑ましい。涙が出るくらいに。

この本の中で、ニッポンの思想は結局シーソーだと書かれている。いったりきたりしているだけで、何にも変わっていないと。同じことがちょうど読んでいたニーチェの「善悪の彼岸」にも書かれていたし、こちらの方がかなり正確に言い当てていると思うので引用する。

個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁をもちあって伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史に出現するように見えても、やはり或る大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように一つの体系に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に可能な諸哲学の根本図式を繰り返し充たすか、という事実のうちにも窺われる。彼らは或る目に見えない呪縛のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻るのである。彼らはその批判的または体系的な意思をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。―そのかぎりにおいて、哲学することは一種の高等な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげで―思うに、同様な文法機能による支配と指導のおかげで―初めから一切が哲学体系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈に或る別の可能性への道が塞がれていることも避けがたい。

つまり、労働するという根本機能が欠落している怠け者の思想家批判家からすれば、いくら考えても地球から出て行くことは出来ないということで、走った結果同じ地点に戻ってきてしまっても、その人だって飯を食って家族を養う必要があるので、また同じ道を走っていかねばならないが、しかし最初の走りは最初だったから価値があってみんなも金を払ってくれたけど、また同じ道を走るとなると金を払ってくれそうにない。さて困ったぞ。となると、最初の走りをそもそも難解なものにしておけば、二回目の走りはちょっと羽飾りでも頭につけておけば、そもそも走りとは見抜かれないだろうから、これはよさそうだ、となる。これは言ってみればチョコボの不思議なダンジョン現象である。かのゲームのラストダンジョンは、終わりがない。特定階層まで奥へもぐればボスもいるしレアアイテムも出やすくなるが、地下1000階までもぐってみて、どうやら無限ループだと気付く。現実世界の数直線の比率に直せば、その頃にはかつていた人たちはみんな死んでるので、結果としてバレない。晴れて時効となる。再帰性・自己言及性というのは、実は彼らがおまんまを食べるための体のいい言い訳である。団塊の世代と一緒で、自分たちさえ逃げ切れればあとはどうなろうと知ったことかという思想がすけてみえる。

問題の核心は、飯を食っていかねばならないということである。死以外には解放される術はない。生きている限り、何かしらして飯を食うのだ。最近の思想家たちが時事問題に切り込むようになったのも、ネタ切れだからだ。彼ら自身の学問領域にはもう在庫がないのだ。狩猟民族みたいなものだ。刈りつくしてしまったら、移動しなければならない。

この問題は根が深い。最近の国民の経済に対する論調は、供給が多すぎるのが問題だ、である。格差も失業率も貧困もすべてそれで説明がつくと。国設派遣村のやっていることが、実はこれから先のニッポンを占うための、超最先端の社会的実験であるという認識はもっと持った方がいい。彼らを意地汚いホームレスだと切って捨てるなら、それは我々が寿命を全うできない可能性を高めることになる。dankogaiもみんなが働く必要はないとどっかで言っていたかもしれないが、もっといえば、みんなが働いたら食っていけないのだ。だってこんなに失業者がいるのに、社会はまわっているのである。

ところで最近、いやもっと前から、ネットがつまらなくなった。言論や社会批評だけじゃなく、2chのおふざけや、エロ動画や、技術情報さえもである。ニヒリズムとかじゃなく、本当につまらない。ネットをする暇があったら読書をするようになった。「インターネットが死ぬ日」は技術的なネットの死についての話であったが、この状況は文化的な死だ。ネタ切れなのだ。象徴的なのがはてな匿名ダイアリーである。今までは聞けなかったような、庶民の赤裸々などうでもいい打ち明け話が列挙され、それなりに注目を集めるようになった。しかし、その内実は電話人生相談と瓜二つである。ここに来て、ネットの質はテレビやラジオとどっこいどっこいになってきた。もちろん、実際はそんなことはないかもしれない。しかし、面白い記事がどこかにあったとしても、それを我々が見る手段はなくなってきた。はてなブックマークのせいである。「ネット検索革命」という本でははてなブックマークのようなソーシャルな仕組みがgoogleを脅かす日が来るかもと書かれていたが、いやいやすでにgoogleを置き換えているのだ。少なくともはてブのユーザにとっては。はてなブックマークのカテゴリトップページを三日でも眺めてみればよい。脳のリソースの大半をあくびに投じたことを自覚せずにおれない。

ネットがつまらないというのは致命的である。現代人はあまりにもネットに依存しているからだ。イコール人生がつまらないということになってしまう。
ではどうすればよいかといえば、ネットをやめることをおすすめする。「構造と力」のテーマが、「みんな外へ出よう」だったらしい。80年代からすれば、今いる場所は部屋の中で、外といえばそのものずばり玄関の外だっただろうが、今となっては、いる場所が部屋どころかさらにその中のネットの中になってしまっている。一段階階層をもぐってしまっている。「みんな外へ出よう」という論には、誰も与しなかったようだ。むしろ逆というのが面白い。外に出ようというのは、ネットから外へ出ようということだ。部屋に戻ろうということだ。部屋に戻って、読書をしようということだ。もう一つ、仕事というものも大事だ。プロジェクトが炎上して終電アンド休日出勤だったとき、私は楽しかった。人生の楽しみを、ネットに求めるという姿勢は間違っているのだ。それは仕事や、家庭や、子供の笑顔、そういったものにしかやどることはないのだ。みんなちゃんとはたらきましょう。はたらいて家族をもって、子供を作って。それだけが、再帰性からの逃げ道である。