雑誌「世界」で「絞首刑は残虐か」という記事を読んだ。
国際的に非難されつつも日本では未だに絞首刑を死刑囚に執行していて、法律的には公務員に残虐な手法での死刑執行を禁じているけれど過去の判例では絞首刑は残虐ではないということになっていて、判例主義によって今でも絞首刑ということのようだ。
理想的な条件下においては、絞首刑を執行してピンと首が吊られた瞬間に、死刑囚の意識レベルは消失するから、ある意味安楽死であるという医学者の論も後押しをしたと。ところがあくまでこれは理想的な条件下であることが条件で、運の悪い死刑囚はそれはもう恐ろしい最後を迎えることになると。中でも大変なのが、首を吊った際に首が切断されることもあるということだった。中世ヨーロッパのような残虐なギロチンによる死刑執行から遠く離れた現代における絞首刑において、結局首が切断されるという本末転倒ぶりに日本らしさが現れている。

2011/10/31大阪地裁主文後回し,絞首刑合憲 ⇒死刑判決:大阪此花区パチンコ店放火殺人事件高見素直

死刑という制度を是とするなら、死刑囚が死にさえすればその手法などどうでもよいわけで、死刑囚の殺し方を改善しようとすることに熱意を注ぐ人がいるというのは驚きだった。リファクタリングにしてもやりすぎで、時期尚早な最適化というやつで、死刑執行数なんて年間十を超えることもほとんどないわけで、こんな些末なことにまで首をつっこむ弁護人には閉口するしかない。戦後においても死刑執行数トータルはわずか600ちょい。このうち首が切断されたケースはいったい何件あるというのか。

死刑執行・判決推移

マイノリティにとって状況の改善には彼ら自身が声をあげるしかない。死刑囚たちはそもそも絞首刑はいやだと口を揃えているのだろうか。しかし、死に方を選べなかった被害者や年間三万人を超える自殺者をさしおいて、死刑囚の死に方を真摯に考えるというのは現実味がない。

こういうケースに対する最適なリファクタリングは、リファクタリングを行う必要をそもそもなくすことだ。殺し方を議論するのなんかめんどくさいから死刑をなくしてしまうのが一番だろう。
しかし、死刑をなくしてしまうと問題のあるケースがある。本来なら死刑囚の囚人がいて、彼が脱獄と連続殺人と再収監を繰り返した場合、対処のしようがない。可能性としてそれが排除できない以上、やはり死刑は必要である。
死刑囚がたとえ更生したとしても死刑は執行されてしまう。更生した人間を死なせることが果たして正義なのかと弁護人は問う。しかし逆のケースもある。死刑囚が更生しないどころか再犯してしまったら正義はどうなってしまうのか。死刑囚が更生する可能性と、死刑囚が脱獄して再犯する可能性は全くイコールである。だったら殺すしかない。どう考えても。
被害者遺族が死刑囚に死を望む理由は、果たして怒りの感情だけなのだろうか。それと同じくらい、恐怖を感じているのではないか。死刑囚からお礼参りされるかもしれないという恐怖を消すためには死刑囚が死ぬしかない。死刑囚の死は、被害者遺族にとって全く利益がないどころか、利益しかないのである。
死刑に反対する人は多いが、死刑囚には更生と再犯の可能性が同程度に存在するとしか考えられない以上、殺すしかないのである。