ほんとうのやさしさ

貴志祐介の最高傑作SF「新世界より」では、人はPKを発動することが出来、少しむかついた相手の頭をイメージした瞬間に吹き飛ばすことが出来てしまうため、それを防ぐために「攻撃抑制」と「愧死機構」という仕組みがある。遺伝子レベルで組み込まれた制御により、他人に対して悪意や害意を描いた人間は、気分が悪くなるなどの体調不良を生じる。これが攻撃抑制。万が一呪力で人を殺害しようとした瞬間にトリガが走り他人を殺す前に即死する。これが愧死機構。
遺伝子レベルの制御より上の層でも人と人とが協同するための取り組みがなされており、人は普段から男女間同姓間に関わらず、セックスや擬似セックスを通した密着コミュニケーションを行なう。フリーセックスによって敵愾心の発生を抑制している。そうやって幸せを演出することで、人間に対する悪意を減じている。

我々の世界でも事情が似ている。私たちは普段他人に対して悪意や害意を生じても、それを実行に移すことはしない。もし誰かを殺してしまえば、家族は悲しむだけじゃなくマスコミや世間の攻撃に晒され生涯に渡って路頭に迷う。友人や知人や、人のつながりが、誰かを殺すことを抑制している。私が人を殺したら私の家族がどうなるか。私の友人がどうなるか。自分自身の破滅だけでは終われないことが攻撃抑制になっている。万が一殺してしまえば、法システムによって裁かれる。これは愧死機構に相当する。遺伝子レベルでの制御といったSFのような真似をしなくても、社会という仕組みそのものによって、私たち人間は互いに殺しあうことを回避している。

新世界より」には悪鬼という存在が説話として恐れられている。悪鬼とは遺伝子の欠損によって愧死機構も攻撃抑制も機能しない人間がシリアルキラー化した状態のことである。自分はいくらでも他人をサイコキネシスで殺戮できるが、周りの人間は攻撃抑制と愧死機構によってその悪鬼を攻撃することは出来ない。つまり悪鬼が殺戮者の素質を備えていた場合、人類は絶滅する可能性さえある。誰も止めることが出来ないからだ。この世界では悪鬼を生み出さないためにあらゆる努力が図られている。フリーセックスもそのための仕組みのひとつ。そして少しでも悪鬼の素養を見せた人間は呪力が弱い子供のうちに殺人動物によって処分される。家庭に問題があると悪鬼が生まれやすい。

我々の世界にも悪鬼は存在する。秋葉原での大量殺戮者もそうだし熊本での幼児殺害事件の犯人もそうだ。社会システムで抑えることが出来ないケースが存在する。この世界の悪鬼にとって、自らが殺人を犯すことによって家族や友人が破滅することなど何の抑制にもならない。私たちはいつもおびえている。電車の中で、バスの中で、交差点で、さっきまで目の前を普通の歩速で歩いていた人間が、ポケットから金属を取り出し、目を光らせて無差別に攻撃を始めることを恐れている。アメリカだともっと深刻で、攻撃の道具が散弾銃になったりするので、被害が半端なくなる。

私たちは間違いに気付き始めている。新たなシリアルキラーが登場する度に、この社会はおかしい、何かが間違っていると警報が鳴る。愛が足りないと感じている。社会にもっと愛を満たさなければならない。差別をなくして、排除をなくして、貧困も離別も隔離もない社会、人と人が輪になって笑い合えるような社会を作らないといけないと誰もが感じている。

さて、ここまでは攻撃抑制の話である。私たちの社会では、一人の人間が周りの他人の気持ちをおもんぱかることによって、他人の痛みが理解できるやさしい人間になることによって、それを目指すことによって運営されている。人を殺すと家族が悲しむ。悲しいからやってはいけない。

こういう風に、誰かを思うことによって、何かを抑制するケースというのは、何も攻撃抑制だけではない。人が人と連帯しようという気持ちを持つ社会では、もっと多くのものが抑制されている。それによって人は人としての可能性を大きく制限されている。しかもそれは巧妙に隠されていて、本人にはそのような足かせがはめられていることなど露とも気付かない。


普通の人がいる。休み時間は友達と昨日見たバラエティの話題で盛り上がり、女子の間で人気のあるアイドルに憧れて真似をしたり、サッカーの試合をスポーツバーの席から涙を流しながら応援したり、新しいゲームが発売すると始発よりも早い時間から店に並んだり。人と同じように笑い、人と同じように悲しみ、人と同じように天寿を全うし死んでいく人たちがいる。それは圧倒的大多数の人間のことだ。少年ジャンプを読んでいる平凡な人たちだ。流行を作るのも、売り上げランキングの一位を決めるのも、売れっ子アイドルを選ぶのも彼ら普通の人々である。凡庸な人間たちが昆虫のようにひしめきあっている。彼らごく当たり前の無能な普通の人々。価値もないが害もない蟻の足のように規則正しくうごめく人々。人間であることを放棄し、運命のレコードにひたすら耳を傾けるゴミたち。彼らは自ら望んでそうなったのではない。彼らは人類に備わるある抑制機能によって、ああなったのだ。人間として終わったのだ。そして終わることによって、人と共に生きることを選択したのだ。

私たちの身体には、攻撃抑制や愧死機構よりも遥かに強力で残酷な仕組みが備わっている。それは愛である。他人を愛する心。同一化する心。人は愛によって走ることが出来ない。哲学や数学を学ぶことが出来ない。それはあなたと彼らを別つからだ。人よりぬきんでてはいけない。それは別れだからだ。あまりに多くの人を傷つけるからだ。その傷は銃痕よりもゆっくりと人を死に至らしめるからだ。受験戦争がある。あれは人を差別化する仕組みに見える。しかし違うのだ。受験戦争は競争ではない。受験を突破して良い学校に入るのはごく一部の優秀な生徒だけか?違う。大半の生徒はそこそこ良い学校に入るのだ結局。人は人を決して孤立化させない。人よりも勉強するヤツが出れば周りは彼を一人にしないために受験を追い立てるのだ。受験で得た知識や技術は社会では一切役に立たない。本番では一切使えないのだ。結果的に受験で一番になった人間と受験さえしなかった人間は平等になる。同じスタート地点に立ったままなのはかわりない。優れたシステムである。

人は誰しもが才能を持つ。思春期になるくらいには誰もが自らの才能に気付く。それをそのまま伸ばし続ければ頂点が取れる。誰にも真似ることのできない最高傑作を残せる。富も栄誉も思いのままになる。でも人はやさしいからそれをしないのだ。やさしさがそれをよしとしないのだ。優秀になることは世界の全てを敵に回すことになる。家族も友人も全ての人間関係を終わらせることになる。あなたにとって終わるだけでない。周りの人間にとっても終わってしまうのだ。そんなことは出来るわけがない。人が人を殺せないのと全く同じ理由で、人は人よりも優秀になれない。それは人の尊厳を守るためだ。尊厳を傷つけられた人間は生きていけない。やさしい人はその刃をおさめ、才能を封印する。そして友人たちと昨日のテレビのバラエティの話題に興じる。
人はやさしすぎるのだ。その優しさを知らない人間がいる。それが悪鬼である。殺人よりもっと恐ろしいことを堂々とやってのける。他人を押しのけて知識を食い漁り、スキルを果てしなく伸ばし、記録を次々と塗り替え、天才の名をほしいままにし、経済的にも成功する。人は悪鬼を殺すべきだが、攻撃抑制によって、やさしさによってそれを実行することが出来ない。悪鬼は破壊と殺戮を延々と続ける。富を漁り、平等な再分配を阻害し、人の平和な世に亀裂を入れる。経済的にも技術的にも成功した天才が、テレビで高説を息巻く。それを見たやさしい人々の心はどれだけ傷つけられるだろうか。その傷は生を終わらせてしまう可能性さえある。


新世界より」には悪鬼の他に業魔という存在がある。あまりにも優秀な呪力が放射能のように周囲に漏れ出ることによって、環境を根本から破壊してしまう存在のことだ。業魔は自ら死を選ぶ。悪鬼とは違う。やさしさを知っているからだ。自分が生きていることが人類にとっていかに危険かを理解しているからだ。優秀な人間たちが一人でも多く業魔であることを望む。悪鬼に世が満ちるときこの世界は本当に終わるだろう。
優秀な人間たちよ、あなたたちは死ぬべきなのだ。人のために。もし愛があるなら、死んでください。