ラストプログラマ

東京は人口過密で悲鳴をあげています。
「なんとなくクリスタル」な奥さんが歯医者に嫁いで嗚咽を漏らしています。
司法試験を突破した法の番人たちは自分たちの椅子に必死にしがみついて涙を枯らしています。

原因はたった一つ。同業者が多すぎるのです。奥さんは言います。がんばって美貌と知性に磨きをかけて上位大学に滑り込んでやっとのことで見つけた歯医者の夫。最初はウハウハだったけれど気がつけば周りは同業者でいっぱい。またたくまに収入ダウン。医療器具や補助者の給料は高騰の一途で夫の給料は今では平社員並みです。私は後悔しています。この結婚をそして人生を。
弁護士は言います。俺たちは石にかじりつく思いで超難関の司法試験を突破した。死んでいった仲間もたくさんいた。そうやってやっとのことで掴んだ幸せをおびやかす魔の手がある。それは法科大学院と大量に押し寄せるペーパー弁護士だ。法曹人口の増加?冗談じゃない。ただでさえ弁護士は過密なんだ。田舎で事務所なんか開いたって閑古鳥だから都会でやるしかない。そうなるとどこもかしこも弁護士事務所だ。タレント弁護士でもない限りまともに飯も食えやしない。これ以上弁護士を増やさないでくれ。これは聖なる資格なんだ。

歯医者は不要ですか?弁護士はたくさん要りませんか?クライアントである我々からすれば選択肢が増えることや競争や淘汰で価格破壊やサービスの増強が起こるから良いことずくめです。しかし彼らだって飯を食わねばならんのです。医者も弁護士もなるためには膨大な費用がかかっているのです。競争相手がいるのはいいことですが増えすぎたら元も子もないのです。次は薬剤師が過剰になるようです。瞬きする間に椅子は減っていきませう。

そして、プログラマも泣いているのです。ただひとつ他と違うのは、これがとても深刻な事態だということです。

教科書で習つたように、産業構造は農業や林業や漁業が廃れていき、土木建築ガス水道電気もインフラが固まりきってしまい、労働者は第三次産業へ流れ込みました。この第三次産業は人を受け入れるためにたった一つ条件を突きつけます。人付き合いがいいことです。人間様に奉仕する喜びをよだれで表現できなければいけません。サービス業。その名を聞くだけでフラッシュバックに苦しむ人も多いと思います。血の通っていない残虐さを毎日しゃぶらねばなりません。四方のどこを向いても笑顔を絶やしてはなりません。笑った顔のまま死になさいと教育されます。子どもとお馬さんごっこをするためではなくお客様のために腰を直角に折るのです。お客様がいわれなきにせよお怒りになられストレスをあなたに対して発散しているときは出来る限り協力して差し上げなさい。卑屈な顔をしてまぶたをひきつらせてお客様の嗜虐性を刺激しなさい。あなたはもう歩く必要はないのです。這うのです。這ってお客様の靴をお舐めなさい。おいしいでしょう?
もちろんこんなのに堪えられる人ばかりではございません。人には個性と適応というものがあります。対人サービスにこなれた人もいれば適応できずに引きこもる人も一定数いるのです。
「「若者はかいそう」論のウソ」という本に以下のようにありました。「残ったのは対人折衝ばかり」という章です。従来ブルーカラーとして内向的に生きてきた人々の行き場がなくなっているという話です。

受け皿が「大規模」な「サービス業」であること。すなわち、対人折衝が不可避な仕事なのだ。
対人折衝に長け、社内・社外の多数の人間とうまくやっていかないと生きていけない。
今までのように、収入は低くとものんびりできる自営業や、肉体的にハードでも人間関係に気を煩わせなくてすむ製造・建設業がなくなり、もちろん、農林漁業は為替レートで激減した。残ったのは、ホワイトカラーか販売・サービスという対人業務と、エンジニアのみ。
文系頭の人間は、とどのつまり「人と接しない限り」生きていけない。そんな就労構造が徐々に浸透し始める。

ここがポイントです。

その結果が、フリーターやニート、引きこもりの増加に繋がった。

とんでも論だと笑う人はぶんなぐってやりますよ。「人と接しない限り生きていけない」という状況がどれだけの絶望か。ここに光を当ててくれる論者を私は知りませんでした。
さて、上記引用文の中に「エンジニア」が出てきます。これは対人業務からは外れているのが着目されます。そうです。エンジニアだけは、人の中では生きることが出来ない人々の希望なのです。私は人間が大嫌いです。無能な奴しかいないからです。関わりたくもないし顔も見たくないし同じ空気を吸いたくないのです。そんな私が一応働けてお給料がもらえています。さて職業は何でしょうか?プログラマです。たまーに客先で打ち合わせや飲み会などあるものの基本的に一日中椅子で座ってお仕事が出来ます。私は同僚から質問を受けるときもあまり面と向かってコミュニケーションなどとろうとしません。さっさとsshのパスワードを教えろと言います。トラブルは勝手にログインして解決してやります。その場で答えられる程度の質問ならインスタントメッセンジャーで充分です。口で説明しても忘れられることは多いですがチャットのログに残っていれば二度と同じ質問はして来ないでしょう。インターネットがなかったら、プログラマじゃなかったら、私はどうしていたんでしょうね。人は私のことを哀れむかもしれませんね。欠陥人間だと。しかし私は確信しているのですが、ある領域に到達するためには健常者では絶対に不可能なのです。五体満足に満たされた人間では絶対にたどり着けない。そこへのチケットを持っているのは欠陥人間だけなのです。もっといえば、人の中で生きられないというのはむしろ才能の芽です。そういう特質を備えた人間はどこまでも成長する。限界を突き破ることができる。しかしその才能も、いまや生かせるのはエンジニアのみとなってしまいました。中でも良いのはプログラマで、足がなかろうがめくらだろうが半身不随だろうがなんだろうがコンピュータは受け入れてくれます。私はプログラマは選ばれた人種にのみ値する椅子だと考えています。健常者はすっこんでろということです。無能な人たちが椅子を奪ってしまうことはやめて欲しいのです。昨今のようにわらわらとプログラマ志望や類ずる輩に出てこられては非常にまずい。もちろんそれが技術の進歩に架するものならよいのですがそうでないものが多い。

最近知ったのですが、殺人鬼宮崎勉は手に障害を持っていたそうですね。両手が上向きになることが出来なかったらしいです。生きていくうえで致命的ではないにせよ、彼の狂気と分離して考えることは出来ないです。吉本隆明「模写と鏡」に収録されている「戦後文学の現実性」の中に興味深い記述があります。松本清張の書いた純文学(推理小説じゃないのがびっくり)についての記述です。

松本の「純文学」作品の主人公は、すべて不具者の劣等感と抑圧に悩む人物であり、ひとり合点のために常識にあしらわれて狂乱する文学少女や、独学で貧困なために学界からいびり出されながらむきになって反抗し破れるような人物である。

わかりにくいが要は障害者が主人公ということ。
中略して核心は以下になる。

しかし、松本の作家的な転換を必然的に意味づけているのは、むしろ、社会の片隅で不遇を抱いて轗軻(かんか)する下積みの人間が、社会から不当なあつかいをうけたときは、それにたいして愚行をもって復讐していいのではないか、という直接的な倫理観が、松本のなかに対象化されずに存在している点にあるとかんがえる。

吉本隆明すごいとしかいいようがない。松本清張はご存知の通り結局「大衆向け推理小説」に転向する。上記のようなちっぽけな復讐心なんか大衆の心をつかめないのだ。最近話題になっていた、社会から疎外されているおっさんが殺人鬼になりやすいという話にもレベルがぜんぜん違うが通じる。宮崎勉は優秀なプログラマになっていたかもしれない。でもなれなかった。狂気のせいだけにしてよいのでしょうか。

社会から不当な扱いを受けたものは復讐してよいか?私は当然するべきと考える。ただし、殺してしまってはつまらない。復讐はもっとスマートにやらなければ駄目だ。私はここ6,7年の間ずっと努力している。天才になるためだ。私は世界がひれ伏すような圧倒的な力を得てから復讐してやろうと考えている。