託した思い

駅前の弁当屋若い女性店員が遠目にもはっきりわかる笑顔で笑っていた。隣の従業員との会話がトリガなのかもしれない。あまりにも屈託ない笑顔で、とても幸せそうにも見えるし、自分のこれからの人生には何の不安もないし、襲い掛かってくる外敵もまったき存在しないようなそぶり。感情労働者が客に向かう作り笑顔ではない。恐らく本心から笑っているのだ。
彼女が置かれた空間は一メートル四方もないような狭いスペース。商品陳列棚と在庫倉庫に挟まれて、隣に別の従業員もいるから、もう半歩くらいしか移動するスペースがない。これだけぎゅうぎゅうのスペースでの労働はとっても現代的。まるで檻の中。そのくすんだ静止画みたいな空間を取り囲むのはおびただしい人間の群れの流れ。一日で何万人の人間が行きかう。私なら発狂するような地獄に咲いた一輪のコスモス。なんとか理解しようとして合点がいった。
どうして彼女は笑っていられるのか。それは彼女が大いなる成功を約束されているからだと。なるほど傍目には最低の労働条件に蝕まれるだけの哀れな貧民にしか見えない。しかし彼女には彼氏がいるのだ。あれだけの笑顔である。男の一人や二人つかんでいるだろう。そして彼女はその彼氏に夢を託しているのだ。しかしこの不況である。彼氏だって苦しいかもしれない。佐川急便で働く夫に対してばら色の未来を想像するのは不可能だ。たとえ彼氏が駄目でもまだ子どもがいる。彼女が将来宿すであろう命には無限の可能性がある。つまり彼女はもはや自分に対しては何も期待していないのだ。何が起ころうと揺らがない。自分はただの付随物でしかないのだと固く認識しているのだ。そうやって全てをあきらめたふりをして遠い未来での勝利を確信しているからこその笑顔なのだ。宗教と似ている。現世ではなく来世での、天上での永劫幸福の約束。石を投げつけられても動じない強く盲目な意思。なるほど。現代の女性にとって子どもとは宗教のようなものなのか。
自分が幸せだと笑っている人間ほど不幸なものはない。誰か彼女にあなたは幸せなんかではありませんよと弁当を買うついでに教えてあげればいいのに。