貧乏人が高い時計を買うということ川原の石を駅前で売るということ

ある昔の日喫茶店で、俺はミックスピザを相手はカルボナーラを食べていた。親のカタキみたいに粉チーズをふりかけながら男は時計の話をしてくれた。腕時計を覗かせる。高そうな時計だなくらいにしか思わなかったが、なんでもその筋では有名な時計で、価格は100万をとうに超えるらしい。時計を集めるのが趣味のようで、そういった高級時計はいくつも所持しているようだ。まずは時計を買うといいよと薦められた。50万くらいの安いやつから始めるといいと。当時無職で素寒貧の俺からすれば全くわけのわからない話だった。腕時計なんて買ったところで何の役にも立たない。今時携帯の待受けを開けば時間はわかる。アラーム機能も多彩で機能的にはるかに優れている。ただ自分の趣味を押し付けているだけのようだ。そりゃ俺だってあんたみたく腐るほどカネがあれば高級時計なんて餅投げしたってかまわない。仮にうまく就職出来てボーナスがもらえたって50万の腕時計を買うためにはさらに数ヶ月分給料をストックしなきゃならない。趣味も娯楽も押さえ込んでガラクタを買うなんて正気じゃない。冗談でもいってからかっているようでもあってずいぶん複雑な気持ちになる。男は略歴を述べる。ラーメン屋をやってて潰したことがある。警備員をやりながらなんとか一張羅のスーツを買った。それで証券の営業をやった。たくさんばあさんを騙してナンバーワンになった。貯めた金で独立した。男はめったに見かけない甘いマスクをしていて男の俺でさえ気を引き締めていないと心を持っていかれそうになる。話術も長けていて内容も知的で入り組んでいた。勝ち組というのはこういうものかと腑に落ちる。負け組みとは俺のことかと遅れて理解する。男は自分の会社に案内してくれ、会議室のようなところで俺の心をサンドバッグにする。俺の顔のことを写真で見るより悪くないね五段階で四くらいだという。五がワーストだそうでまったく慰めになっていない。男は哲学を語っている。本はあまり読まないそうだから全部地に足のついた実学だということになる。その正統性にため息が漏れそうになる。まずは年収600万を目指すといいと言った。そこくらいになるといろいろゆとりが出来ると。そこまではなんとか這い上がった方がいいと。今の俺の年収は300なので半分しかない。しかも昇給はストップしておりボーナスも出ていない。会社はだいぶ傾いていていつつぶれるのやらという感じだ。このまま十年働いたってそう変わるまい。なかなかね。うまくいかないよ人生はさ。生まれて初めて見る超弩級のセレブとなんとかお近づきになりたいと俺は必死に取り繕って会話をする。嫌われないように気に入ってもらえるように低い対人スキルを界王拳でふくらます。100万くらいポンとあげようと思ってたなんて言われて気もそぞろになる。カネもあって顔もよくて女なんて掃いて捨てるほ寄って来るだろうし仕事も順風満帆。どう見てもその男は俺の未来とは重ならなかった。
まあ三年前、そんなことがあった。男とはあれ以来会っていないし連絡先も知らない。

おのり vs KND ワーキングプアについて議論
二者がワープアについて音声チャット討論している。この中でおのりという人が川原で石を拾ってきて駅前で売れない人間はクズだという話をしている。おのりは優秀な経営者という設定になっているようだ。石を売れないやつは雇う価値もない。そんなやつらワープアで当然だし生きてる価値もないという論。これまた意味がわからない。相手にもまっとうに反論されている。しかしだんだんにおのりの意見を聞いていると少しずつ氷解していくような気になる。川原の石には商品価値がまったくない。そんなもの駅前で売ったって売れるわけがないとおのりはいう。でも実際にそれをやった人間はなんで売れないのか考えざるをえない。石だから駄目なのか。金色に塗ればいいのか。駅前という場所が悪いのか。ネットでなら買ってくれる人もいるかもしれない。マーケティングの本を読みかじっているような人間ならネットでものを売ろうと考えることはあっても実際に行動には絶対にうつさない。でも石を売ったことのある人間ならやろうとするはずだと。おのりは石を売ってきたら売れなくても次のステップを教えてやると豪語する。おのりはいう。自分はどんな状況になっても絶対に落ちこぼれない自信があると。どんなもので売って儲けてみせると。だからワープアたちは無能なのだから自業自得だと。自分がビジネスを設計するときは全体を誰にでも出来る簡単なシステムに分解してワープア自給800円で雇ってやらせる。ワープアには決められた作業しか絶対にやらせない。ビジネスの根幹や全体を理解させるチャンスは与えない。そうやって消費してやると。日本マクドナルドの社長の話をする。あの人を尊敬している。あの人鬼畜だと。従業員にすごい好かれてるけど従業員の給料はピタ一文あげてやらない。そのやり口が残忍だと。話がずれてきた。

高い腕時計を買えと男が言ったのはあながち冗談ではなかったのかもしれないと思った。それはやっておく必要のあることだったのかもしれないと思うようになった。妻に結婚指輪さえ買っていない俺だが、貯金は底をついてしまったが、やるべきではないのかという気がしてくる。川原で石を拾ってきて売っている人の写真も紹介されていた。石100円とテーブルに並べられている。おのりはテーブルという発想はいいと笑いながら褒める。あげく自分は石を売ったことはないという。ただからかっているだけのように見える。俺は思った。俺に石を売ることが出来るだろうか。三年前の俺ならやれたかもしれない。今の俺にはきっと出来ない。しかし三年前に腕時計も買わなかった俺にはやっぱり出来なかったのかもしれない。
意味もなく高い腕時計と川原の石ころの共通点はなんだろうか。それは多分リスクである。自分の打てる博打のうちで最小かつ最大のリスクである。それを取れる種類の人間にまずはならなければならないということなのだ。そしてその博打で負けなければならない。高い時計なんてやっぱり無意味だし石ころなんて誰も買ってくれない。その時に失敗に対して人間が考えるということなのだ。それは最大限に安全なゲームだ。何度でも失敗することが出来る。何度でもやり直せる。起業家を目指す人の入り口はそこにしかないのかもしれない。失敗しても大丈夫なためにテストプログラムを書く。何十個もバグを出したあとでようやく製品に乗るレベルになる。普段やっていることと同じことだ。たくさん失敗したものだけが成功できるという王道。失敗を恐れないのとは違う。失敗を喜び尊ぶこと。失敗するようなことを自ら望んでやること。しかしブログで性器を露出してしまえば逮捕されてしまう。この国は人の失敗を許してくれない。国民性からし起業家精神に欠けるということか。
知識さえあれば、技術さえ極めれば満足のはずだった。カネなんて汚いものだしかき集めたところで幸せにはなれないと。今となっては逆になってしまった。カネが欲しい。億万長者にならなければ本当の幸せは得られないのだと。