専業主婦不要論

「透明な存在の不透明な悪意」の中で宮台真司が専業主婦を廃止せよと述べていた。子どもが小学生になるまでは母子密着教育が重要だがそれ以降はいらんだろという話だ。

仕事しろよって、僕は言いたい。どんな仕事でもいいから。仕事してくれ。自分の仕事で精一杯になってくれ。仕事で悩みを持てよ。仕事で悩み、それを解決し、頑張る。子どもは子どもで別の時間があって、ときどき親がそうやって頑張ってるんだよという話をするチャンスがあれば、それでいい。とにかく「専業主婦、百害あって一利なし」。現在の状況においてはね。

宮台氏の奥さんも含めて全国の専業主婦においては耳をかっぽじって目を見開いて歯を食いしばって上記文を読んで欲しいものだ。少しでも自分たちの存在に恥を感じてもらえれば幸いである。
ちょうど西澤保彦の「夢幻巡礼」を読み終わった直後だったので、母子密着は確かに問題だよなと思った。宮台氏の意見として、専業主婦は時間がありすぎるから、受験だ学校だと瑣末なことに投機しすぎて後戻り出来なくなってるとのことだ。
しかしよく考えてみると、そもそも貧困層は共働きしないと食ってけないので専業主婦という職業が存在しない。じゃあ専業主婦はどこにいるかというと、お金持ちの住んでるニュータウンということになる。夫の稼ぎで充分条件なので働く必要なしということだ。ちょっとこれは勘弁して欲しい。もともと日本では主婦というのが雇用調節弁として最大に重要な役割をしていて、好況で人手が足りなくなれば家庭から主婦をひっぱってきて働かせ、不況になればまた家庭へ引っ込ませる。夫のメインの稼ぎは安定してあるはずなので深刻さは薄い。細切れ雇用なんて腐るほどあるから、そういう隙間にフィットさせるには主婦しか選択肢がない。だが昨今は不況が半端ないせいで主婦は家庭へ引っ込めなくなった。その結果調節弁はぶっ壊れ、仕事の口がどんどん少なくなっている。この上働く必要もない成金ブタババアにまで労働市場にでしゃばってもらっては殺し合いは必至である。むしろ問題は、仕事以外にすることといえば世間話の井戸端会議か子どもの教育にうなされるしかない成金ブタババアどもである。彼女らは教養が根本的に欠落しているために何にも人間らしいことは出来ないのである。
長引く不況と社会現実の情報が氾濫するにつけ、女性を阻むガラスの天井(笑い)と労働のくだらなさの存在にうすうす気付き始めたうら若き女どもは、学校を卒業したら専業主婦になりたいと言い出した。男女雇用機会均等法とは何だったのか。長きに渡るフェミニストたちの血もにじむような闘いは皮肉なことに内部から瓦解してしまった。だって働きたくないもん、である。
しかし彼女らがその望のままに専業主婦となろうものなら、冒頭の宮台氏の懸念が深刻化してしまう。道が必要なのだ。キャリアウーマンでもなく子育て受験ママでもなく第三の道が。
ここで思い起こしていただきたいのは古代ギリシャである。そこでは市民である男たちは労働は奴隷にやらせて自分たちは政治や議論や芸術に花を咲かせた。ある種の人間にはどれだけ望んでも得られないものがある。時間である。しかし専業主婦にはそれがある。そういう状況があるのに、女たちは受験やら夫のステータスの自慢大会やらで人生を棒に振っている。振るのは腰だけにしておけよと忠告したい。もはや明白になったが、これからのアカデミズムは、政治は、学芸は、専業主婦たちが担うしかない。専業主婦たちは自分たちの置かれた超越的特権階級的地位に自覚を持っていただきたい。アカデミズムは死に掛けている。プラトンもあの世で涙しているに違いない。美術も音楽も枯れようとしている。今こそ聖母たちの出番ではないのか。女性とは肥沃な大地を象徴している。ありあまったパワーと贅肉はそこで発散していただきたい。

と、ここまで書いて、しばらく「透明な存在の不透明な悪意」を読み進めると以下のように書いてあった。

つまり、実際そこで舞いあがり、情緒的発散をしてるのは、おばさんなんです。専業主婦のおばさんが、旦那さんと濃密な愛の時間もなく、子どもとの濃密な時間もなくて、それこそ浮遊しているときに、有害コミック問題とかテレクラ問題とかを見つけて、人生の最後の花を咲かせようみたいに頑張る。そこに濃密さを発見しちゃったんです。
ですから有害コミック問題なんかの根本的な問題は、おばさんサルベージプログラムをどうするかなんです。おばさんを救済しなくちゃならない(笑)。こういう問題は何回も出てくる。おばさんが濃密な時間を生きていないから、とんでもない、まったく見当違いの社会の方で燃焼してしまう。

生きるって難しいよなと思った。