誰かのように成るのではなく生きる

最近朝方までぐずぐずとぼんやりしていることが増えた。考えているんである。人生のことを。竜馬伝に対して武田鉄也が寄せている竜馬への熱い思いを読んでちょっと感動したという話を少し前に妻にした。武田鉄也はいう。

自分の個人史と重ね合わせても、18歳のときに小説世界の中で坂本龍馬と出会い、心を奪われ、19歳のときには高知の桂浜にある龍馬像の下で「あなたのように生きたい!」と正座して泣いた思い出があります。

「あなたのように生きたい」。さすがじゃないか。「あなたのように成りたい」ではない。「生きたい」のだ。若者なら誰かに憧れて当然さ。でもつい成りたいなんて言ってしまう。もう軸がずれているんだ。成りたいじゃだめなんだ。生きなきゃ。最近福沢諭吉の「福翁自伝」を読んだ。思わずにはおれなかった。あなたのように生きたいと。もちろんウソである。そりゃちょっとはカッコいいとは思ったが、武田鉄也のように砂浜で正座で落涙とはならぬ。してみるに、手本にしたいような人間は見当たらないのだ。憧れなんてもうないのだ。多段ロケットの一段目がなくなってからはまこと大変である。武田鉄也だって19歳のときに泣いたわけだ。そりゃそんなに若けりゃねぇと。今俺は一応働いちゃいるけれどニートや引きこもりと変わりやしない。仕事?つまんねぇよ。超つまんねぇ。もう飽きたよ。もっとおもしろいことしたいよ。もっともっと刺激的に生きたいよ。このまま一生日陰の下請けの派遣で終わるつもりなのかよ。もちょっときばれよ。