履歴書の写真や判子が曲がっていることに我慢ならない人がさんざ叩かれている
そういえば面接に遅刻してきたから問答無用で不採用としたという話を聞いたことがある。
もし採用に際して能力が重要であるなら、写真や遅刻や体裁などというのは判断基準としては無意味だ。それらを加点・減点対象としてそれで差がつくような採用方法であるなら、採用側の不測である。
ところで、最近は不況のおりにて失業給付を受ける人が増えたようだが、規定値上限まで給付を受けるには求職の意思を示す必要があり、仕事をする気がなくても求人に応募しなければならないようだし、生活保護の延命条件としても、求職失敗事実は有効なようだ。テレビで、30歳で生活保護を受けている人がいて、熱心にハローワークへ通っていて、仕事が見つからなくて大変ですねというと、いや、仕事をする気はない、と。仕事をいくら探しても見つからないという事実が欲しくてやっているだけだと。それで生活保護が延長されるのだと。
求人に応募してくる人といってもいろいろと事情があるわけで、その仕事を本当にやりたい、やらねばならぬという人が全てではない。やる気のない人にとって、履歴書の体裁をどうこうする意味はない。むしろ落としてもらわねば困る。結果として、写真や判子は選別の手段としては有効になってしまうのだ。
大学生の新卒市場も同様で、最近読んだ本によると就職氷河期なんてものはなくて、ただ大学生の数が増え過ぎただけだそうだが、ネットでエントリーが簡易化された結果、膨大な求職者をさばく必要が生じ、大学名で足きりとなってしまうが、上位大学卒の中にはすでに合格していてもさらに上を狙うような輩がおり、爾来よりすべり止めというテクニックが染み付いているから、はなから受ける気のない仕事にも積極的に応募する。その結果採用側も、はじめから内定辞退数を見積もって採用を行ったりして、あんまり採用し過ぎたら、まあ研修でいじめて落とすか、くらいになってしまう。
なんでもかんでもクジなのだ。どれだけ真剣にやろうがやらなかろうが、あらかじめスカが含まれている。はずれを除去する作法を当たり前に論ずるだけで袋叩きにあう。このクジはハズレの方が圧倒的に少ないが、ハズレを引いた人がさもそれを一般化して言いふらすために、最近の若者はなどと論点がずれていく。
写真や判子で選別するのは有効だが、それは数少ないハズレを除けばアタリばかりだからだ。現代的な仕事をする上で必要な一般的な人間像というのはそこらへんの誰でも備えているのであって、誰を採用しようと結果に差はない。ならば人事担当者の好き嫌いで選ぶしかない。市場に存在するほぼ全ての仕事に対して現代人は明らかなオーバースペックである。そしてほぼ全ての仕事は退屈で低劣なものだ。アメリカでは高卒ではマックジョブにしかつけないなどと言われる。マックジョブとは軽蔑の象徴だが、今では大卒だろうと同じなのだ。見渡してみるにマックジョブ以外の仕事なんてどこにあるのだろうか。職業選択の自由は一切機能していない。クソみたいな仕事ばかりである。我々に出来るのは排泄するトイレを選ぶことくらいだ。