湘南へたれラインと自殺

今日も湘南新宿ラインは人身事故の影響で運転を見合わせております。おかげで乗り換え線に大量に人と汗がなだれ込み車内はダンテの神曲の地獄のようです。
私は自殺には賛成です。アカギのようにアルツハイマーになったからと自らで死を定めるというのはやはり尊厳死なわけです。どうやってどこに生まれるかは選べなくてもどうやってどこで死ぬかは選べるわけですから、自由な人としては自然死におもねるというのはいささか文明人とは呼べますまい。考えても見てください。今世にはびこる老人たちがみんな首を吊ってくれたら我々若者の未来はなんと明るいことでしょうか!明るい未来とはいつもたくさんの死体の上に成り立つもの。しかしいまやこの死体役を若者が担っているという二重の悲劇なわけです。
ただ、いただけないのです。どうして電車に飛び込んでしまうのか。私にはこれが解せないのです。そんな折、ちょうど読んでいた辺見庸氏の「いまここに在ることの恥」という本に書いてありました。

「一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝う」という。一人がでたらめを語ると、多くの人々がそれを真実として広めてしまうのだという後漢のたとえである。

私たちは駅のアナウンスで人身事故と聞けば、ああまた一人飛び込んだのかと直感します。しかし、それは短絡というものです。JRの駅というのはとんでもない欠陥構造をしていて、線路に身を投げ出すのに何も自殺の決意などいらないのです。私自身何度酔っ払って落ちかけたことか。あれだけ狭いスペースにがけっぷちに立つように人を待たせて並べていたらそりゃあたまには誰か落ちるものです。線路と道路を二次元的に配置すればそりゃあ誰かが踏み切りではまって列車と衝突するでしょう。いってみればJRのマッチポンプです。JRのゴミ職員どもは自分たちはぬくぬくと呆けたらくちんな仕事をしておきながら、線路から人が落ちてくるのを待っていて、ややしめたとはね殺して、やれ社会が悪いだ世相が寒いだのと言論の中心者づらをしております。そんなに駅の改修費用を公費でまかないたいのでしょうか。恐ろしい話です。人身事故のうち自殺企図の割合なんてたかがしれているでしょう。
こうしてJRのおふざけに付き合った民衆がどのようになるかというと、自殺といえばJRとなるわけです。自殺の名所などというものがあるのは何故なのか。それはやはり人は死に方を選べていないということなのでしょう。死ぬ者ももう適当でやけっぱちなので、頭のてっぺんに浮かんだ場所で死のうとするものです。実際にそこが自殺の名所ではなかったとしても、そう思い込んでしまう人は後を絶たないでしょう。
ではどういう人がJRで自殺しようとするかといえば、情報弱者です。年齢的にいっても、30代後半からお年寄りまでです。これが逆に情報に強い若者となると、ネットで仲間を募ってレンタカーで練炭で自殺します。ここでもお年寄りはどんくさいです。死ぬときくらい迷惑かけずにひっそりと死ねといいたい。若者を見習うべきです。どうせ今日の人身事故もどこかの中高年サラリーマンが逝ったのでしょう。

いずれにしても、JRで死ぬような人間は明らかな自殺難民です。適切な死に方をきちんと国で啓蒙すべきです。学校でも生き方とか明るい話ばっかりしていないで死に方についての教育が必要でしょう。私も一度だけ駅のホームで自殺現場に遭遇しました。普段は15両編成車両の14両目くらいが停車する位置に何故か7両目くらいしか来ていませんでした。ホームの柱に忘れ形見のようにカバンをていねいに立てかけていました。駅員がライトで車両の下の方を照らして死体を探していました。しばらくして人が集まっており、めいめいに携帯で写真を撮ったりがやがやと楽しそうにしていました。まさに見世物とはこのことです。最終的に青いビニールシートで殺人現場のように幕が張られ遮蔽されました。アナウンスではただいま救助中ですとおっしゃりますがそらぞらしいだけです。電車に轢かれるとスプラッタ映画のように木っ端微塵になるといいます。そうやって最後はバラバラ死体ジャンキーたちのカメラに収まるのです。尊厳死とはとても遠い死に方です。
確かに駅や線路はかっこうの死に場所のように見えます。どこにでもあるからです。これが高いビルから飛び降りるとなると、確実に死ねるほどの高さのものを見つけなければなりません。薬を飲むにしても致死量はなかなか素人には判定できません。万が一助かって後遺症など残ろうものなら死ぬことさえ出来ないような体になるやもしれません。その点駅や線路なら、いつでも同じ速度で、時刻表通りに、確実に死ねる手段を提供しています。怖くもないでしょう。毎日黄色い線の内側で待っていたものが、ただ目の前に来るだけですから。目的地だって会社に比べたら天国でしょう。