ルームシェア・ハウスシェアについて

「他人と暮らす若者たち」という新書を読んだ。友人に一人、もう数年以上もルームシェアというかハウスシェアを男女混合で実践している奴がいるので、また、実際にそこへ泊めてもらったこともあり、一般人よりはルームシェアについてイメージを持っているつもりだ。友人の話を聞いた限りでは、ずいぶんとメリットが多い仕組みのように思う。この本の中でも、基本的にはプラスの面を中心に構成されている。家賃が安く済む。同じ家賃でも広い部屋に住める。寂しさがまぎれる。他人の目を意識することで自らの生活が律せられる。いろいろな価値観に触れられる。デメリットには目をつむってしまえるほど、あまりにも得るものが多い様子。

ルームシェアという問題は、住居問題でもあり、家族問題でもあり、福祉の問題でもあり、実に様々な要因と絡まっているようだ。この本では、最後の方でシェアモにまで言及されていた。また、シェアを一歩進めて、他人同士の助け合いについても言及されていた。奥が深いようだ。

ただ、今の若者は今のためではなく未来のために、ハウスシェアを経験しておいた方が良い。何故かというと、彼らは結婚もしないし子供も設けない可能性が、これまでの日本人よりもかなり高いからだ。このまま老いていけば、独居老人となる。社会にそのような老人が今よりももっと増えれば、それは今でも一部でやられているような、他人同士の老人どもによる互助のためのシステムが一般的になっていくはずだ。数組の老夫婦でアパート自体を貸し切り、一種の老人ホームのようなものを運営していくような試みは大変有効だ。そうなったとき、他人への猜疑心を抱えたままでは到底やっていけるものではない。来るべき独居老人の寄せ集めハウジングの予行練習として、若いうちにハウスシェアを経験しておくことは意味がある。若者たちでさえハウスシェアには多くのトラブルがあるが、老人ともなればその比ではない。介護や健康問題があるからだ。そして性の問題ももっと深刻になっているはずだ。家族間殺人の一部は痴呆老人によるものという怖い話もある。老人と暮らすことほど恐ろしいものはない。

この本では触れられていなかったが、単純に部屋をシェアするという目的以上に、実利的な面を重視した、人生をシェアする形態もある。プログラマ養成所としてのギークハウス漫画家養成所としてのトキワ荘プロジェクトがそうである。
一般にルームシェアする人というのは、自分たちの同居人として、自分たちと近い属性を備えた人を好むようだ。年収や勤労形態や清潔感が大きく違ってしまうと共同生活にはすぐさま障害となっていくためだ。ギークハウスなどはそれをもう一歩進めて、自分たちの将来の夢さえも同一の人と共同生活しようという試みだ。モチベーションやスキルをシェアしようということになる。しかしこれは残酷なことだ。夢を追う姿をシェアするということは夢に敗れてくずおれる姿もシェアせざるをえない。群れてやろうなどと思う時点でさしたる才のない証左であるから、しまいには誰も成功者を出さずにハウスごと倒壊するだろう。

さて、何よりも問題なのは中国人である。普通ルームシェアとは一軒家なりを借りて部屋ごとに人を割り振るものだが、きゃつらはワンルーム級の部屋に5,6人でシェアをしていやがる。私の住むマンションにも雨の日になると玄関横の格子にたくさんの傘が干されて並んでいる光景を目にする。またある日は部屋の前に何枚も何枚も布団が干されている。一体その狭い部屋を何人で暮らしているのかと不審でならぬ。だいたい違反行為じゃないのか。大家にちくってやろうかと算段しているところである。しかし空き家の多いマンションである。大家にしても中国人でも宇宙人でも何でもいいから部屋を借りてくれというありさまなのだろう。