HIVに感染した看護婦がクビにされた件について、クビは妥当だし、そういう看護婦がいる病院には行きたくない。予防措置原則だから。
人間とは勝手なもので、物事を自分との距離感でしか判定しえない。例えば東京に住んでいる人間にとって愛知県の話などどうでもよいので、論理・倫理から妥当と思えるものだけを、きれいごとだけを吐くようになる。ただの言語ゲームである。しかしこれが自分の身の回りでのこととなるや、論理・倫理はどこかへ影を潜め、感情と先入観と偏見だけで行動する。きれいごとをいっているクズどもは、自分の子供をHIV陽性の看護婦に預けられるのだろうか。もし預けられるというのなら、もはや親である資格を失うだろう。HIV感染者を差別するなというものは、HIV研究者なのだろうか?そうでなくて一般人のくせに紙や口伝えに得た情報を信じきるというのなら、改宗をおすすめする。
HIVは唾液にも含まれる。会話で飛び散る唾液にも。その飛び散った唾液がたまたま擦り傷に付着して、そこから感染しないと断言できるのだろうか。HIVの感染経路には不明というものがずいぶんある。この全てが唾液経由でないと判定することは出来ない。唾液に含まれるのは少量だから、その程度が体内に入っても問題ないというが、たまたまウイルスが付着した傷口が、免疫抑制剤を塗布した場所だった場合にも問題がないといえるだろうか。アトピー患者がプロトピックを顔の傷口に塗っていたとして、そこにHIV唾液が付着しても問題ないと確定できるのだろうか。
確かにクリーンな環境とクリーンな人間の間では唾液やキスや握手ではHIVは感染しないのだろう。そんなありふれたテストケースは何十万回とパスしているはずだから。しかしあらゆる可能性が考えられる以上、その全てをテストしているはずがない。テストしきれない以上、絶対に安全ではない。だから一般人に出来ることは、最悪のケースを想定することだ。HIV感染者と接触すると性行為をしなくても感染すると仮定する。となると取りえる選択肢は一つしかなく、接触しないことだ。
感情と先入観と偏見だけで行動することは、それほど愚かではない。このやり方の戦略性と適合性の高さは人類の歴史においてさんざんテストされ尽くしているし問題がないことも証明されている。そもそもすでに皆そうしている。HIVの知識を振りかざすクズどもは、単にその知識を感情と先入観と偏見に取り入れただけのことだ。

何よりも大事なことは、HIV感染者たちが生きていけることである。HIV感染者にとって、差別されているかどうかなど、どうでもよいのだ。差別がどうのこうのとおしゃべりをしている連中は案の定、実際の患者の立場では考えていない。現在はエイズ発祥を抑制する薬を用いればなかなかに効果があるらしい。しかし、その薬を受けるためには保険適用したとしても月に何万円もかかるし、保険適用でないものまで含めると治療費はとてもまかなえるものではない。助かる道はあるのに、その道を選べないのだ。いつ死ぬかわからない恐怖に怯えている人間が、自己実現だとか、希望の職業につけないだとか、そんなことはどうでもよいに決まっている。HIV感染者が差別されるのは当然だ。普通の人と同じように生きて行くことは無理だ。差別をやめた人間は同情するから。普通に生きていけなくなった人間が国に放置されていることが問題なのだ。HIV感染者が求めているのは生活保護である。

HIV感染者をもっと差別した方がいい。普通の人間社会ではどうやっても生きていけないくらいにぼこぼこにすべきだ。そうなれば国もようやく動くだろう。