郵便不正事件・倉沢被告への判決を読んで
について「実にスカッとしない良い判決だ」と書かれている。要は真実が何であるかはとても難しい問題という話のようだ。わからないことをわからないままでおくという困難さ。

もちろんこの裁判官のような貞淑さは一般人に望むべくもないし望むべきではない。誰もが自分にとってのみの真実についてのみ語るしかない。
私たちの生活は真実に満ちている。私が座っている椅子も、玄関で履く靴も真実である。生きることをフィルターになぞらえるなら、浮遊する情報の中から真実だけをつむいでいるのが生だといえる。そこでは理解出来なかったこと、確定できなかったこと、あいまいなものはすり抜けていく。だから私たちは今日も何ら不安を感じることがない。
つまり真実とは、その人の理解到達範囲で、安寧にダメージを受けずに暮らせる空間のことである。
あの子ひょっとして僕のことを好きなんじゃないかと思うとき、あの子は確かに僕のことを好きなのだ。それ以外に何か隠された事実、あの子は本当は僕のことを好きじゃないというような事実があると想定するのは愚かなことである。
社会的な統計調査の類がでたらめなのは有名な話だ。出生率貧困率も、測定者のやりたいように欲しいままの結果が描かれるだけである。何らかの目的、担当部署に金を落とすためとか金持ち優遇のためとか、そういう目的がまずあって、それに基づいてデータを恣意的に取得・選別しているだけである。だからそういう統計データが発表される度に、ああこれが社会の真実なんだと素朴に直感しているのはあんまりだ。
日常的に主観的な観測でもって、中国人は犯罪者しかいないとか、韓国人はクズしかいないとか感じているとき、それはありのままの真実であるし、その質は統計調査と同一である。その人が何を論じたいかでしかない。
小学生全国統一テストの張り紙を見かけた。「日本をテストします」と大きく書かれていた。小学生が日本であるかのようにすりかわっていた。一体どれだけの小学生がこんなくだらないものに参加するのだろうか。その結果が悪かったとして、それを何につなげたいのだろうか。
それでも、ひとつの真実らしき結果に基づいて判断を下すしかない。中国人が犯罪者でないということになれば、中国人が犯罪を起こしても見なかったふりをするしかない。