物語ではニコニコ動画にはなれない

ショートショートのススメ・ニコニコ動画のような小説投稿サイトを考える〜前編〜
についてとても興味深い論だと思うけれど、どうしていまだにそういうものがないかがすでに答えを示している。
テキストはシークが出来ない。ニコニコ動画に投稿された動画は、先頭から再生しなくてもよい。どのポジションにも適当にジャンプして、どのポジションをとっても切り出して意味化出来る。それがアニメだろうと歌だろうと。pixivの絵もそう。思い思いにスライドショーを飛ばして、拡縮可能。絵の全体を見てもいいしフトモモの部分のみを見てもいい。
しかしテキストによる物語はそうはいかない。物語はどこか一箇所でも途中が欠けてしまうと物語ではなくなる。必ず先頭から読み始めて、途中で本を閉じるときにはしおりを挟まなければならない。続きはしおりから始めなければならない。それを消費したと判定できるタイミングは最後の文字を読み込んだときしかない。これは、ショートショートだから克服できる問題ではない。ニコニコ動画もpixivもその繁栄理由は物語ではないからである。物語という形式を取る以上、勝ち目はない。
恋愛を面倒くさがる若者が多いという。セックスさえ出来ればよいので、それに至る長々とした場面はあまりにも時間浪費に思えるのだそうだ。だから手コキだけをセックスだけを切り出して提供する性産業が存立出来ている。シーク出来ないものは若者には受け入れられない。
テキストはビルドしなければいけない。人間に構文解析器の役目をまずは負わせる。画像や映像や音声はビルド済みだからただ消費するだけよい。この安楽さには勝てない。
物語とは決して人の中に重さを残さない。読み始め、ストーリーと共に心を盛り上がらせ、しかし物語はエンディングを迎える。そこまで積み上げてきた世界観もキャラクターたちの肉厚も、全てそこで終わりである。これは喪失である。本を一冊手に取る度に、出会いと別れが必然となる。若者たちは失うことをひどく恐れている。たとえ二度と会話することのなさそうな相手であっても携帯のアドレスをメモリに残す心性を抱えているのだ。ニコニコ動画はループさせることが出来るが物語はそうはいかない。一度終端まで到達したが最後、二度と最初に戻ることは出来ない。

結局は若者問題なのである。どうして若者たちはこうなってしまったのか。それはテロメアが切れたからだと思う。学校の教室に閉じ込められ粘度の高いコミュニケーションに漬け込まれ、携帯とネットで一生分以上の情報を投与される。技術進歩によって若者は強大な力を得るようになった。人々は誤解しているが、途中や経過をすっ飛ばして結果だけを得たからといって、その摂取量は途中を含んでしまっている。安易に得た結果の束のあとには疲弊だけが残る。今を生きている若者の大半は、実はもう死んでいるといってよい。だからシークしか出来ないのだ。恐らくもう何一つとして、受容されない。
これから若者をターゲットにするなら、死体を相手に商売する方法を考えなければならない。体のどこを叩けば足が上がるのか知っていさえすればよいのだ。楽なビジネスである。

もしテキストでニコニコ動画みたいにするなら、「みつを」みたいなスタイルしかあるまい。

ニコニコ動画もpixivも多量の著作権侵害で成立しているが、テキストでそれは可能だろうか。本から文章を盗用しようにも、片手でページを開いて文字をキーボードで写し取るのはことである。