大川隆法総裁がおっしゃられるには「いつも人と違うことを考え、言い、実行せよ」とのことであった。この言を見て、何を陳腐なことを言っているのかと思われる人もいるやもしれぬが、しかしよくよく考えてみると、その奥深さに気付くだろう。
人と違ったことをせよというのはよく言われることだ。しかし、それは額面通りの意味など持っていない。なぜなら、人と違ったことをするには、人が何をやっているかを絶えず観察しきっていなければならないからだ。人と違えるためには、どこまでも普通の人々になりきらざるをえない。たとえ人と同じことを言わなくても、実行しなくても、それをするのと同じだけのことを、すでにし終えていなければならない。
そうなると、孤高に独才を発揮している異人であっても、渋谷の街に溶け込んでいる知恵なき若者であっても、本質は紙一重だということになる。その人が人と違うことを考えて実行しているかどうかは、最終的に外からは判定できない。全ての人がそうなのだから、それらの人を判断材料にして人と違うことをしようとしている人というのは一体何なのかということになる。恐らく何者でもない。
結局、何をしても、何もしなくても、同じところに行き着くか同じところから出発しているかの違いしかない。
一切はむなしい、こういうことなのだろう。ただ能力の違いがあるだけなのだ。何を成すも成さぬも関係なく、人は各々の力量と適ったところでバランスをとって生きてゆくのが最適なのだろう。
ネトゲ中毒者を罵倒する権利は、ブログやtwitterの利用者には一切ないといっていい。仮想空間で仮想通貨や仮想名誉を積み立てて悦に入っているという点で何ら違いがないからだ。
ネットで活動したことが実利につながった人がどれだけいただろうか。はてなスターと同じだけの意味しかもたないのだ。
一切はむなしいのだとしたら、我々はどこへ向かえばよいのだろうか。
いや、その答えのひとつは大川隆法総裁であった。偉大な人の言葉には強い力がある。力とはその言葉につき従う信者の数である。偉大とは付き従う信者の数である。
社会契約論に以下の文がある。

この崇高な理性は、普通の人々の手のとどかないところにあるが、立法者はその理性の決定を不死のもの[神々]の口から出たもののようにし、そうして人間の思慮によっては動かしえない人々を、神の権威によってひっぱって行ったのである。
中略
マキャヴェルリはいう、「いかなる国民においても神にたよらないで特別の法を公布したものはないことは、真実である。なぜなら、そうしなかったら、彼らはうけいれられなかったろうから。賢者には認められても、他の人々を納得させるほどには自明ではない多くの利点がそうした法律には存在するのである。」
中略
政治と宗教とが、われわれの間では共通の目的をもつ、というべきではなく、むしろ、諸国民の起源においては、宗教が政治の道具として役立つ、と結論しなければならない。

どうして現代人はおろかな奴ばかりなのだろうと思っていたが、それは誰もが宗教に属していないからであるということが理解できた。
人は神の言葉しか受け入れられないのだというのは確かにその通りとしか言えない。無神論者の私こそそう思う。
幸福の科学でも創価学会でも何でもいいから、みんな宗教すべきじゃないだろうか。