人がものを書くとき何を書くかといえば、思ったことを書く。思ったことというのは脳内で言語化出来ているもののことを指す。それは何らフィルターで加工することもなく、ただただストレートに送出されるだけである。
それは反応である。石をどれだけ力を込めて遠くへ投げるかというのとは違う。自動で上下している包丁の下に人参を置いたらどうなるかという問題である。ただ起こるだろうと思った通りのことが起こる。
駅の雑踏の中で、時々独り言をぶつぶつとつぶやく人がいる。彼らが何をしゃべっているのか聞き取れることは少ないが、聞き取れても取れなくてもその内容の私への受容のされ方に差はない。
木は語りかけてはこない。アスファルトや看板や走行車も。私たちが街を歩くとき目に飛び込んでくる多くの情報は言語ではない。それらを言語化する能力を私たちは備えているが、あえて言語化したりはしない。
言葉は人を立ち止まらせる。普段通り過ぎるだけの構内を、路上アーティストの美声にふと歩速をゆるめる。
数百メガバイトもあるバイナリのビデオデータは数十分で見終えるが、数キロバイトのテキストファイルは何時間も時間を要する。
言葉を実体化させるということは、そう気軽なことではないはずである。それは確実にリソースを消費していく。
だから、まだ誰にも書かれていないことを、誰も考えてもみなかったことを書くべきだ。例外だけを積み重ねていくべきだ。
思ったことなど書く意味はない。考えたことを書くべきだ。言語化出来ているものではなくて、言語化出来ていないものを。
AV女優ごときのつぶやきに数万人のフォロワーがついた。つぶやきを罵倒したメディア側の人間の失態に延々と非難のコメントがついた。
これはなんだろうか。
つぶやきがネットを本当に終わらせたことを誰が気付いただろうか。
はてなブックマークのタグ一覧ではtwitteriphoneのフォントばかりが大きくなっている。
同じ絵の具をみんなでぶちまけた世界。何の魅力もない。
ネットから技術者が去っていく。ネットから思想家が去っていく。見渡してごらん。論客たちはもういなくなってしまった。
成熟。大衆化。そんな文字では押しとどめることのできない深い悲しみがある。
ネットには、今後、もう誰一人として技術者は現れない。思想家は生まれない。
もう言葉はネットで生きていけない。