歌詞と可視

何かを理解するということは、どういったラインでそう決定できるだろうかと考えたとき、記号に置換できたときがそうであると思う。プログラムの動きを、実際にユーザの目に触れる画面の動きから、脳内でソースコードに置換できるなら、それが理解したということだ。文章を理解する瞬間というのは、その文章を自分の言葉で置換できたときだ。
そして、音楽を理解するということは、それを音符に置換できたときだが、一般人は絶対音感は持っておらず、それは叶わない。メロディを口ずさむことができても、それでは理解したとはならない。口ずさんだメロディなら、自分なりにアレンジを加えたりできるから、それは自分のものにしたということだといえそうだが、しかし、口ずさんだメロディは音符に置換されていないために、再現性がない。記号に置換していないものを長期間記憶しておくことは困難どころか不可能だといえる。
では、音楽が今日のように普及したのは何故であろうか。理解できないものに親しみを覚えることができるとは思えない。ならば、可能性は二つある。人々は音楽を理解する必要がないからなのか、もしくは、音楽を何らかの別の形で理解しているかだ。
理解する必要がないものに惹かれる人間は多い。少年ジャンプの漫画は中高年まで幅広く読まれているが、その内容は小学生でも理解できることであり、中高年たちは理解の反復を楽しんでいるといえる。一時期中高年向けの小学生でも解けるような計算ドリルが流行したり、小学生でもちょっと考えればわかるような問題を芸人たちがおもしろおかしく解答するクイズ番組も後を絶たない。こういった情報の摂取は、摂取というよりもむしろ排泄であるといえる。トイレでいつもしているようなことを、日常生活のあちこちに蔓延させていると捉えてよい。
しかし音楽は、そうではない。なぜなら、ひとつの原曲を何人もがカバーしたり、コミュニティが発展したりするからだ。ただメロディをコピーするだけではなく、アレンジを加え、楽器を換え、オリジナルを相対化していく。そういったものの中には、オリジナルをしのぐものも現れてくる。しかし、漫画ではこうはいかない。同人誌はいくらでも横に広がりはするが、オリジナルを超える気概を持ったものは皆無だ。普遍性を持たないのだ。
メロディを口ずさむことは理解ではない。すでに口ずさむ前提として理解しているのだ。その理解の柱となっているのが歌詞である。歌詞のみをもって音楽の普遍性が成立する。言葉とは人間に一番親しみをもったバイナリ表現だといえる。それさえ手に入れば、いかようにも理解し加工できる。音楽にはポータビリティがある。いつでもどこでも開始することができる。歌詞を口ずさめば、あたり一面に貫通する。音楽のポータビリティと、歌詞のポータビリティと、これらによって音楽を理解することはたやすくなっている。
カラオケボックスで、ニコニコ動画で、音楽と共に字幕として歌詞が表示されたとき、人はそれを理解していく。理解したその場から、口ずさみ、アレンジを加え、人に聞かせることができる。音楽の可視性はとてつもなく広い。現代人の視力は低下の一途だが、耳から入る言葉は即座に見える。現代人の視力の低下もあらゆる事象の理解の妨げとなっているが、音楽にはそれがない。
音楽をはじめるにはコンピュータは要らない。ペンさえいらない。ボールも必要ない。ただその場でその身ひとつで開始できる。音楽が証明していることのひとつが、可視性は最強のポータビリティだということだ。このポータビリティの妨げとなっているのが悪名高い著作権管理団体カスラックであり、一日もはやい消滅と無能中高年のリストラが望まれる。音楽が売れなくなったという。あたりまえである。これだけポータビリティの高いものを、いってみれば空気みたいなものを、売り物にして私腹を肥やそうというのがカスの考えである。
これはひとつの教訓であって、つまり理解できるものは売れないということだ。逆に、理解する必要のないものが売れるということになる。理解できないものはいずれは理解できることから理解できるものと同カテゴリーだ。少年ジャンプはこれからも売れ続けるだろうが、文学や哲学や思想は売れない。人々に摂取を促すのではなく、人々の排泄の手助けをするものだけが商品となれる。