駐輪場が満車で、空きを待つ長い列が出来ており、私は舌打ちと共に列の最後尾についた。妻からメールが来て、娘が私が教えたフレーズに近い声を出したと書かれていた。感動した私は気恥ずかしいのでそのことには触れずに、駐輪場が満車で待ちで面倒くさい旨のメールを入力していた。しかし最後まで入力する前に、私は列の最前に来ており、すぐに空きが出たので携帯はしまって駐車した。電車に乗り、しばらくして思い出してメールの続きを入力し始めた。だが状況はすでに駐輪場で待っているわけではなく、電車で揺られていて、特段思うこともないので、ぼんやりとして、ようやくネタが見つかって入力していると、目的駅に到着した。ジュンク堂で小遣い全額と引き換えに本を買い、カフェの無料券がもらえたのでそれでカフェに行ったら満席で、そのことを愚痴るメールを入力しようと思ったが本が重かったのでやめた。
私はこの外出に関して、妻に対していろいろとメールする内容を思いついたが、結局何ひとつ送信することはなかった。伝えることが多すぎると、それを伝えようとする間に状況が変わってしまい、その新たな状況を伝えようとすると…という風に、いつまでたっても伝えるという行為に到達しないことがある。そういうとき、結局は伝えないまま終わることも多い。この場合、私は妻とコミュニケーションを一切とらなかったとはいえない。私は家にいる妻に対して直接話さなかったが、私の中にいる妻に対して多くのことを話した。そのことで私の中にいる妻は確実に変化した。もちろん、これは仮想的な妻であるから、本人はこのことを知らない。しかし、私はリアルの妻と話すとき、その妻と同時に、仮想的な妻とも話しをしているのである。リアルの妻には実際に話していない内容も、仮想の妻には話してあるわけだから、私はそれを前提としてリアルの妻と話すことになる。もちろんそのとき私はその話をリアルの妻にはしていなかったことを忘れて混同している。しかしそこにある結果は、私がかつてとらなかったコミュニケーションを織り込んだものとなっている。こういう意味から、コミュニケーションはとても重層的といえる。
だから、例えば祈るという行為は、虚ではないといえる。誰かが救われることを多く祈った人間は、その彼と次に接するとき、その祈りを織り込んでいる。どこの誰ともしれない一目ぼれした相手に対して妄想の中で語り続け、数年後に再会して初めて言葉を交わしたとき、それは決して初めての会話ではない。私たちが問題にするのは誰が何かを言ったかどうかであることが多い。言わなかったことは問題にならない。だからといって彼にさらに多くを語らせても、最後までは語らない部分はどうしても残ることになる。しかし彼は語らないことも含めて語ったのだから、彼にしてみれば全てを語ったことになる。そういう意味で、私たちが言葉で交わす会話というものは、あまりにも全てを含んでいるといえる。ただ耳に聞こえないだけである。
最近密教の本をいろいろと読んでいて、とても魅力にとりつかれている。「空海の思想について」の中に以下の文章がある。

すべてのものの中に阿字がある。われわれの中にも阿字がある。とすれば、すべてのものの中にわれがあり、われの中にすべてのものがある。

空海は、たった一字の中に全てを見出していたらしい。愚者は差異を見るが智者は同一を見出すとあった。ちょっと感動ものである。