ふつうの人々はかわいそうである。彼らは考えたことがないからだ

池田信夫氏が『超訳 ニーチェの言葉』という本を偽書だといっていた。私も少し前からこの本が書店でも大きく取り上げられているのをうさんくさく思っていた。ニーチェに関する本がこの出版不況において十万部を超えるというのは良い兆候だろうか。そうではない。この本を買った人は間違いなく知能指数70前後だ。哀れでならない。技術書もそうだが、どの本を買うかによってその人のレベルが明らかとなるのである。
あまりにもくだらない本だと思ったので立ち読みさえしていない。ニーチェの言葉というタイトルからして、読む価値がないことがうかがえる。
恥ずかしいことに、私もニーチェを学び始めた直後は、ニーチェの言葉に強く心を打たれた。神のようにあがめた時期もあった。それほどに力強く魂を揺さぶる言葉だった。
中でもとりわけ私好みだったのはツァラツゥストラに出てくるせむし男のエピソードであった。せむしというのは極度の猫背で背中が異常に盛り上がっているものをいうようだ。一種の障害だ。
「救済」というサブエピソードに以下の話がある。

ある日ツァラツゥストラが大きな橋を渡って行くと、不具者や乞食のむれが、かれを取りかこんだ。その中のひとりのせむしの男が、かれにむかってこう言った。
「見なさい。ツァラツゥストラ!民衆もあなたから学び、あなたの教えを信じるようになってきた。しかし民衆があなたに完全に信服するためには、まだひとつのことが要る、―あなたはまずわれわれ不具者を改宗させなければならない!ここには選りぬきのものがそろっている。まことに、絶好の機会、たんに前髪をそなえているどころの話ではない!あなたはここで、めくらをなおすこともできる。足萎えを歩かせることもできる。背中に余分なこぶがついている者には、きっとそのこぶを小さくしてやることができるだろう。―不具者たちにツァラツゥストラを信じさせるためには、これがいちばんいい方法だろう!」
しかしツァラツゥストラは、そう言った者に、こう答えた。
「せむしからそのこぶをとると、せむしは知恵がなくなる。―これは民衆のあいだにすでに行われている説である。まためくらの眼が見えるようになれば、世の中にあまりに多くの不愉快なことを見ることになって、かれは自分を癒してくれたものを呪う。足萎えを歩けるようにするのは、かれに最大のわざわいをもたらすことだ。なぜなら、彼は歩きだすやいなや、彼の悪徳もいっしょに歩きだすから、―これらも民衆の説である。民衆がツァラトゥストラから学ぶというなら、どうしてツァラツゥストラが民衆から学んではいけないだろうか?
『この男には眼がない。あの男には耳がない。またあちらの男には脚がない。また舌や、鼻や、ないしは頭を失った者がいる』などといわれているのを、わたしは人間たちのあいだにきて、眼で見たが、それはわたしには取るに足らないことだった。
もっとひどいもの、また多くの実に嫌悪すべきものをわたしは見てきたし、いまも見ている。」

この文章は強烈である。私もアトピーを抱えているが、もし私のように障害を抱える人間がこれを読んだら、おそらく、救われたと考えるだろう。なんという圧倒的な肯定だろうかと。

私は今ではアトピーでよかったと考えている。もしアトピーでなかったら、劣等感や欠損感を抱え続けていなかったら、今のような高い能力は備えていなかったし、クズのような凡庸な人生を歩んでいただろう。なんら欠損していなかったなら、書物を手に取ることもなかった。私は逆に、ふつうの人々がかわいそうになった。彼らは一生得られないのだ。何一つ高みに到達するすべを持たないのだ。なんて哀れなんだろう。よく生きてられるよなと思う。
障害をかかえるものたちは、喜ばなければならない。心の底から障害を授かったことを感謝すべきだ。マヒがある?目が見えない?手足がない?被爆者みたいなみてくれだ?おめでとう!よかったじゃないか!ふつうの生活なんて送れないのだ。ふつうにはどうやったってなれないのだ。だったらやることはひとつしかないじゃないか。考えろ。朝から晩まで、脳髄を絞りつくせ。思想家になればいいのだ。

もちろんニーチェは障害を肯定なんてしていない。上記は私の先走った妄想であった。だがニーチェは否定もしていない。ニーチェ箴言を多く残した。それらは含蓄深く見える。しかしニーチェが言いたかったのは、箴言などどうとでもいえるということではなかったか。言葉など、受け取る人間の受け取りたいように受け取られるだけで無意味だということなのではないのか。ニーチェ箴言などかざりだ。だからニーチェの言葉を取りあげても駄目なのだ。ニーチェから生き方を学ぼうなど見当違いなのだ。ニーチェから学ぶことはたったひとつ。それはニーチェが発狂するまでの生涯を、病とともに、考えに考え抜いたということなのだ。人生のその全てを、思想を深めることに投じたのだ。
昨日テレビで83歳のときの吉本隆明の公演のVTRが流れていた。よぼよぼのじいさんが映し出されていた。半そでの飾り気のないシャツを着て、やせこけていて、背中は曲がり、言葉はとぎれとぎれにもつれ、そんなじじいが、眼をキラキラと輝かせて思想を語っていた。折れそうな手を動かして、遠くの上の方をじっと見つめて、公演時間をとうに過ぎたのにやめようともせず、思想を語っていた。公演後のおまけとして、吉本隆明の自宅を糸井重里が訪ねるシーンがあった。昼間に語りはじめたじじいは、糸井が帰るときには外はもう夜になっていた。話し終えて部屋へ帰ろうとするときの吉本隆明の折れ曲がった背中の後姿がなんと神々しかったか。

ニーチェは言ってくれなかったが、ツァラツゥストラの登場人物の中で一番超人に近いのはせむし男だと思うのだ。何故なら障害者の方が思想に投じられる時間が圧倒的に長いからだ。私は人間関係は無駄だと思う。この世界に、ニーチェ吉本隆明よりも優れた人物が現存するとは思えない。だから、他人と付き合っているひまがあったら、彼らの著作を全部読んでからにすべきだ。そういう無意味な人間関係をはじめから排除できるのは障害者の特権だ。逆に、ふつうの人々に思想することは不可能だ。彼らには思想に投じる時間はないし、多くのくだらない人間関係に囲まれて幸せとやらを満喫しているからだ。
障害者は心行くまで楽しむがよい。思想という究極の遊戯を。最高のセックスを。