だんだんきつくなるべき

共同幻想論」の解題の中で吉本隆明が以下の発言をしていた。

吉本「だから、若いときっていうのは、精神的な意味でもいろんな意味でもきつい。いまがきついから、だからもうちょっといい加減齢くってきたら、なんかゆとりが…」
鮎川「ゆとりなんて言葉を聞くのはちょっと珍しいね(笑)。」
吉本「なんとなく眺望がきいてゆとりが出ることがどっかであるはずじゃないかっていうふうに思ってきましたけどね。どうも、いま考えているところでは、人間ていうのはそういうふうにできてねえんじゃないか、だんだんきつくなるっていうふうにしかできてねえんじゃないか。」
鮎川「君の場合はそうだよ(笑)。ほかの人は楽になるかもしれないけど、君の場合はね、年々きつくなるんじゃないかね。」

さすが吉本隆明というような鋭い視点である。私はこれを読んで一気にファンになってしまった。

私の体験としては、「ほかの人」と同様である。最初の仕事では、右も左もわからず、精神的に大変追い詰められたし、まったく先もまわりも見えなくてきつかった。しかし仕事に習熟するにつれ、不安は薄れ、景色は晴れ、きつさが減っていった。学べば学ぶほど、きつくなくなってきた。これは、駄目なんじゃないか。だんだんきつくならないということは、吉本隆明のような人間にはなれないということである。
同じ仕事を続けるうちに、同僚との信頼関係も築かれ、技術レベルも上がり、周囲からは頼られ、問題解決を積み重ね、毎日座る椅子の座り心地がだんだんよくなってくる。かつて背筋を伸ばさせていた何ものかは失せ、柔軟に曲がる背もたれと同じくらい柔軟に背を丸めてあるいは反り返らせて仕事をするようになってくる。こういうことは絶対に避けなければならないことなのだ。本物の技術者ならば、思想家たりうる資格を持つものならば、もっときつくならなければならないのだ。

転職に関して勤続年数が問題になるらしい。三年も経たずにやめた若者は評価を下げられる。しかし、勤続年数を重ねていることは無能の証である。たんに惰性で生きているだけのクズである。長期雇用なんてくそ食らえである。そんな見せ掛けの安定など誰が望むものか。もっときつくなりたい。もっともっと追い詰められたい。能力とはそうやってしかのばせないのだ。人間は、自分に解ける問題になど目をくれてはいけないのだ。