今日は風が強い。とても風が強いから、外はずいぶんいろいろなものが飛ばされて舞っているかと思いきや、ただ強い風があるだけでそういうものはない。どうしてゴミが舞って散乱していないのか。それは、風がさっきも吹いていたし、昨日も吹いていたからである。もしそういうゴミがあるとすれば、それは建物の隅や、排水溝の中や、人目につかない路地裏のようなところに、すでに風で運ばれて固着しているのだ。風自体は変化の象徴のようなものだが、その結果は微量ずつ蓄積されるため、私たちは普段その効用に気付かない。たんに、風が強いなとか、涼しくて気持ちいいとか思う程度である。しかしその裏や過去において、風はあらゆるものを運び、これ以上もう飛ばされないような場所へ固着させ続けてきたのだ。これは、とてもすがすがしいことである。もし風が吹かなかったらこの地上はゴミで溢れていただろう。これは、流通ではない。ただ一方的な排他的な運搬である。私たちは普段流通に取り囲まれている。金もそうだし、電車もそうだ。行って、来て、めぐりめぐって、吐き気がするくらいに回転させられている。だからいつまでたっても、すっきりしない。トイレを流したり、唾を吐いたり、人を殺したり、そういう一方的な運搬が人の心を少しだけ浄化する。どこかで一家心中があった。労働環境を苦に自殺した。秋葉原で大量殺人が起きた。そうやって何かが消えたと確信できるときだけ、ひとはふっと、息をつけるのである。私たちが本当の幸せを手に入れようと思うとき、流通という仕組みは、とても邪魔になる。