CMを見ると安心する

テレビがつまらなくなったといわれて久しい。ニュースもドラマもバラエティもあんまりなひどさで、噛み殺したあくびたちが浮かばれない。
ところで、CMがつまらなくなったとは聞いたことがない。反対に、おもしろくなったとも聞かない。CMは番組自体とは志向性が違うのは確かだが、それが番組から切り離せない以上、そのおもしろさを評価する声は多いはずだがそういった声は聞かれない。考えてみれば、過去に見たCMを覚えてさえいない。ドラマの主役や筋書きやクライマックスはフラッシュバックさせることが出来ても、その幕間に流れたCMの内容は一切浮かんでこない。ところが、youtubeで十年以上も前のCMがアップロードされているのをたまたま見かけたりすると、えもいわれぬ懐かしさと暖かさが去来する。私たちが覚えていたのがドラマの主役だったのかCMだったのか定かではなくなる。CMなんてどうでもよいと多くの人が思っている。見ている番組がCMに切り替わったらチャンネルをザッピングするという人も多い。HDレコーダでCMをカットしてしまうこともある。しかし私たちが意識しているよりはるかに、CMは大切なものである。それは神といってもよいほどだ。
私たちはCMを見るとき、そこに何も期待しない。おもしろくなるはずだ、とか。おもしろそうだ、とか。悲しみの予感を感じたり、とか。しない。
私たちはCMを見るとき、誰からも期待されない。来週もこの番組を見てくださいね、とか。男女交際は大切ですよ、とか。親はかくあるべきだ、とか。ない。
私たちはCMを見るとき、何も考えなくていい。仕事のことも、家族のことも、明日のことも、どうでもよくなる。
そこにあるのは、ただひたすらな許しである。圧倒的な肯定。母親の胎内のような、前提も過程も結果もない無条件の抱擁。
そうでないと、説明がつかないのだ。テレビを見ていて、CMに変わったのに、そのままテレビから視線をそらさずにいるのは何故なのだろう。私たちは何も切り替わってなんかいないのだ。
CMは、真実に気付かせてくれる。世界は広告だ。誰かがあなたに愛してると言ってくれたら、それはあなたへの広告なのだ。自転車のハンドルをつかむこと、スーパーできゅうりを買うこと。ありがとうございましたとお釣りと受け取ること。渡すこと。全部広告なのに、誰一人CMの話はしない。そういうとき、電車の壁に取り付けられた広告を見ると、ほっとするのだ。家に帰ってテレビをつけるとほっとするのだ。