新本格派ミステリー化するvipper

浮気してるんじゃないかと疑いすぎて彼女の家に侵入してみたという2chの記事を読んだ。遠距離恋愛をしているカップルがあり、男が都会で暮らす女の浮気を疑い、女が働いている時間に休暇をとって上京し、合鍵を用いて女宅へ侵入し、浮気の痕跡を探す。どうやら男は女の浮気を確信しているようで、半ば捨て鉢のように体当たりな浮気調査を行い調査過程を写真付きで2chに報告していく。悲劇の大きさに耐えかねてネタ化してしまうのは実にありがちだ。調査のコツをだんだんに心得ていった男は、開封されたコンドームの箱を発見し、ベッドそばのゴミ箱からティッシュにくるまれた使用済みのコンドームを発見し、タンスの奥からアナルパールや手錠やアイマスクを発見する。男はすでに女と婚約しており、不貞を許す気はなく、女の帰宅を待って関係の解消を図る決意を固めていた。私も男だからわかるのだが、アナルパールはちょっと精神的にきついものがある。ただの浮気では済ませられぬ。その後、女の帰宅後巧みな演出で女の浮気を暴き、女は浮気を認め、関係の修復を求めるもそれが叶わぬとなるや本性を剥き出しにし、最後はぶち切れて部屋を出て行ってしまう。女が出て行き一人部屋に残された男は、何もかもどうでもよくなり、女の名誉を貶めるためにハメ撮りした女の顔写真をアップロードする。アップロードされた画像にはこう書かれていた。「釣りでした。アナルパール先生の次回作にこうご期待。」

ここで用いられているのは叙述トリックの一種である。かつて流行した新本格化派ミステリーにおけるテクニックだ。「殺戮にいたる病」や「葉桜の季節に君を想うということ」「そして二人だけになった」「神のロジック・人間(ひと)のマジック」にも用いられている。普通トリックというのは凶器だったりアリバイだったりと作品内における技術的なことがらに閉じるが、叙述トリックは作品の外に、作品自体がトリックとなっている。読者としては鮮やかなマジックを見ているような陶酔に陥ることが出来る実に甘美なものである。そこでは前提が破壊される。犯人だと思っていた奴が犯人でなかったり、犯人は読者だったり、男だと思っていた奴が女だったり、若者が老人だったり、一ページ目からショーは始まり、読者はだまされ続け、作品の最後の一ページでトリックが明らかになる。いってみればメタトリックなのだ。

叙述トリックは効果が甚大だがリスクも高い。読者にある程度パターンを抑えられてしまうと、どうせこうなんでしょと見抜かれてしまう。トリックが見抜けてしまうようなミステリー作家の本は二度と買われない。そして何よりも、ここぞというところで炸裂させることに意味がある。書店に並ぶ自らよりも背の高い書架の列の奥の奥で、他の作品にまじってひっそりとたたずんでいて、たまたま何気なしに手に取った作品が、その夜を情熱に焦がすことに意義がある。叙述トリックはいわば書の森の秘宝だった。何十何百という作品を読み、書を愛したもののみに訪れる満ち溢れた光だった。そんな愛すべき奇跡も、今では2chvip板でピザポテトをかじりながらスクロールされるだけのフォントになってしまった。おもしろいからみんな群がって使いまくる。その歴史や効果や未来に何の考慮を及ばさずに笑いを取るための道具として消費される。

普段限りある資源といえば、石油だとか女子高生が連想される。人は限りあるリソースを、そのリソース枯れの不可避性と共に受容してきた。私たちはそれが消費されれば終わりが来ることを知っている。その消滅に際しては致命的な社会的な陥没がもたらされることをそう遠くない未来に感じている。しかし、資源というのはもっと広い意味でとらえられるべきものだ。資源とは相対的なものなのだ。ある人にとって不要なものでも、それが存在しなくなればもはや生きていけぬとなる人もいる。森に入らずとも宝が得られるのなら、森などなくてもよいとなってしまう。森の中に住まう人々はどうなる?たとえば叙述トリックだ。一回かぎりのとっておきの魔法。もしその魔法を家の軒先で得られてしまったら、人生はなんと色あせてしまうことか。

上述した2chの板のスレ主はネタばれの画像をアップロードしたあとの最後をこうしめくくる。

(俺は)vipper な彼女と日夜変態プレーして楽しんでる男です。

そして男は自らが医者であることも記している。男がアップロードしたアナルパールは実は男がその彼女との遊びで使っている道具だったということになる。ここで明らかになることは、これは単なる叙述トリックではないということだ。女に浮気をされ、しかも自分はやったこともないアナルパールプレイを、その浮気相手とは楽しんでいるという悲劇に打ちひしがれた男に、まるでわがことのように同情を寄せた読者は、実は男自身がそのアナルパールプレイを最大限に楽しんでいてしかも医者だという事実を突きつけられる。寄せていた同情は引き潮に砂浜に寄せる波のように引いていく。波が引いたあとにはくっきりとしたあるものが残っている。それは殺意とでも呼ぶべきものかもしれない。ここで消費されたのは叙述トリックという資源だけではない。読者は気付く。アナル未開発の女がまた一人減ってしまったことに。ここで読者は二重の裏切りに見舞われる。叙述トリックは読者を喜ばせるものだった。しかしここでのそれは、もはや悪用としか呼べない。

男にとって、自らが出会う女性が中古かもしれないというのは耐え難い苦痛である。そしてただ中古にとどまらず、アナルまで開発済みとなってしまっては、一体何が残されるというのか。おもしろいから、気持ちいいから、やってみたいから、子供のような無邪気で残酷な好奇心で、権力を振りかざして女性を蹂躙する男は多い。そういった男は、不特定多数と関係を持ち、環境を破壊し尽くす。焼畑農業なのだ。

夕暮れどきの砂浜で、波打ち際に寄せられた中身の入っていない貝殻を拾って大切そうに戯れる子供たちの泣きそうな顔が、私には忘れられない。