テレビゲームのやり込みには達成感がある。アイテムやモンスターの図鑑を埋めて達成率を上昇させるのは楽しい。タイムアタックファミ通で競うのは楽しい。現実は、そういった楽しさとは無縁だ。現実は静的なゲームのプログラムと違って絶えず自己書き換えを行うからだ。達成率を上げようにも、分子をいくら積み重ねても分母がいくらでも高くなっていくからどこかで虚しさにぶちあたる。かといって人間は楽しさを捨てたりあきらめたりは出来ない。そういった現実で楽しさを得るためには現実をこちらから静的なプログラムに書き換えるしかない。現実のある範囲を鉄の囲いで覆うのだ。そうして分母を固定させれば分子はいずれ分母に追いつくという希望が持てる。この鉄の囲いこそが専門化だ。本田由紀がいうような教育をもっと職業に意義があるように専門化しろというのは残念ながら間違いで、専門化は労働者を搾取から守ってくれたりはしない。むしろより搾取を推し進めるだろう。労働者である限り貧困や搾取からは逃れられない。そうではなくて、専門化とはもっと個人的内面的なものだ。生きづらさから身を守るためのものだ。この点には本田由紀も少し触れ
ているが傍流の扱いしかしていないような気がする。宮台がいうように映像の専門学校をそんなに増やしても業界にはそんな受け皿はない。だから映像の専門学校に行くのが無駄とはならない。専門化を職業と結び付けるという出発点がもはや成り立たないのだ。現代は誰もが専門化しなければならない。そうでないと生きていけない。