選択肢の多さは弊害にしかならない

子供の病状についての助言をtwitterでつぶやくと即座に専門家からレスポンスがありましたという話があり、仙台でホテル予約一軒も空いてないとつぶやくとホテルマンから一室用意いたしましたと即座にレスポンスがありましたという話があり、こういうのがtwitterビジネスの可能性の一端なのかすごいという話になるのかもしれない。既存のQ&Aサイトでもそんなのまかなえていたじゃないかというとその通りなのだが。前者なんかはそうである。後者のホテルの話は、twitterとしての新規性が多少はあるか。単純に一人客を確保したというだけでなく、その客から絶賛のつぶやきがあり、それに呼応して数百人のアクセスが得られたというのだから、効果はそこそこなのか。
まさに監視社会というのが感想。ホテルが見つからないとつぶやいた人は、つぶやいた瞬間からリアルでさらなるホテル探しをしただろうし、それによって部屋を予約できる可能性は相当高い。部屋をリアルで確保してしまったら、先ほどのつぶやきを自分でフォローしなければならない。だってそれを見たホテルマンが一室確保しましたとレスポンスしてくるかもしれないから。ホテルマンは一室確保したはいいが、そのことを通知した相手がそれに対する応答をつぶやいてくれるまで、身動きがとれない。その日の夜になってようやく、ごめんやっぱ部屋自分で見つけたわとなったら、ホテルとしては単なる機会損失である。こういうのがビジネスチャンスだと勘違いしちゃったアホなホテルマンがもっと増えるかもしれない。そうすると、たった一つのホテル見つかりませんというつぶやきに対して、いくつものホテルマンから一室確保しましたとレスポンスがあったりして、客はいちいちどのホテルにするか選ばなくちゃいけなくなる。ホテルであればどれでもいいというのが正直な所なので、まあ一番レスポンス早いところにしとくか、とか、いちいち料金を比べたりして、あなたのホテルを選びますとなるのか。そうして一つ選ぶと、残りの残念なホテルマンたちにいちいちごめんなさいとレスポンスしたりするのか。ホテルマンたちは駅前のタクシー乗り場のウェイティングリストのように待ちぼうけである。こんなんでは、うかつに「〜したい」とか「〜がほしい」とかつぶやけなくなる。本当にそれを心の底から、今ただちに欲しいという人ならいいが、もっとぼんやりした気持ちからの発言だったら、いちいち企業から個人からレスポンスがあったんじゃ、やってられない。一室確保しましたと言われたのでいってみたら男一人のワンルームマンションだったりしたらどうするのか。相手がちゃんとした企業か変態個人なのかどうやって判別するのか。ということは、一人しかレスポンスがなかったとしても、いくつもレスポンスがあったとしても、それらについて真贋性をいちいち客がチェックしなければいけなくなる。どう考えても、正規のルートでホテルを探し続ける方がよい。最近はホテルも出前もタクシーもなんでもポータルサイト的な電話窓口があり、そこへ電話すれば自動的に空いてるところを見つけてくれる。ここで見つからないことなんてまずない。
ブログは死のうとしている。最近は記事の中に、アマゾンやら販売サイトへの商品画像付きリンクが貼られることが以前にもまして増えた。以前は控えめに記事の最後やサイドバーに申し訳程度だったものが、今では記事の最初や途中にまで平気で広告リンクを貼っている人が増えた。みんなプライドがないようで、企業の犬っころ尖兵になりたがりのアホばかりだ。そうして緩やかに記事は社会性や個人性を失って、読む価値がなくなる日も近い。新書一冊買えば、そこらへんの作法はちゃんと守られているので、他の新書の宣伝なんて、帯とかカバーとか巻末くらいにしかない。読者が意識しなくとも、それらを目にすることを避けられる仕組みになっている。ブログはタダだが、うざい広告を記事の途中に差し挟まれるくらいなら、金を払って新書を買った方がマシである。そもそもブログに書かれていることなんて、twitterの140文字制限があろうとなかろうと、表面的で独善的で一切読み物としての価値がないものばかりだ。素人が書いているのだからある意味必然。本当のプロであれば、金に直接結びつかないタダブログなんて、ねちねち書いたりしない。そういうプロの文章を読むには、やはり正規に書店で金を払うしかないということになる。
そういうただでさえ死のうとしているブログに対して、twitter的なビジネスが横行するようになれば、たった一つの記事に対して、あらゆる方向から買って買ってコールが押し寄せることになる。これまではせいぜいアマゾンの本を紹介して客から乞食並みの稼ぎを得ていた書き手は、自分たちまでも客扱いされることになる。従来も記事のキーワードに対して自動的にスパム的な広告トラックバックやコメントを挿入する仕組みはあったが、今度はスパムではなく紳士な売り手たちが真摯に広告を打ってくるようになる。自動だろうと人手を介そうとスパムはスパムだが。自分の部屋の中にまでセールスマンが押しかけてくるイメージだ。心の平定はない。
物売りだけではない。子供の病状へのアドバイスを求めた母親だって、いくつもの助言を何人もの専門家から得られたら、しかもそいつらの発言内容が相反していたら、どれを信じればよいのだろうか。相手が本当に専門家かどうか調査しなければならない。むしろ母親がその成否を判断できる内容なら、そもそもそれははじめから不要なアドバイスだったということになる。もたもたしてないで、地域の病院なりにかけこむなり電話するなりした方があまりにも確実だ。お母さんが欲していたのは小児科医師ではなくて即席カウンセラーだったのだ。
昔から言われていることなのに未だに多くの人が理解していないことに、ネットの情報はあてにならないというのがある。あてになるのは技術情報だけである。なぜなら、技術情報はその場で成否を確認できるからだ。サンプルコードを走らせれば自分の欲しいものかどうか一発で判定できる。しかしそれ以外の情報は、コンパイルできるわけではない。最後は信じるかどうかという問題になる。そんな宗教みたいな話をする暇があったらリアルで行動すればよい。
ネットのベストな使い道は、自己保存欲とか自己保身欲とか虚栄心を満たしたりとか、かまってちゃんをやったりとか、未熟な精神をとろとろとときほぐした玉子みたいにべちゃっとぶちまけることである。どうしようもないクズな人間がクズみたいな内容をだらだらと吐きまくるのがいい。そもそもそれくらいにしか使い道がない。実利的なことを指向している人たちには吐き気がする。

ネットには主人公が多すぎる。これでは話は進まないしまとまらない。