newしてdeleteしない世界

例えば今日の日記を書いて、ブログに飽きて、もういいやと放置する。ブログを運営する母体が消滅することは滅多にないので、その日記は半永久的に残り続ける。
例えば販売機でコーラを買って、飲み終わったらゴミ箱に捨てる。その日のうちには消えてなくなる。
多くの人は、生み出したり手に入れたりすることの方が、その反対よりも圧倒的に多い。生んだり得たりしたものを、選択的に意識的に残すことよりも、無意識的に忘却的に結果的に残すことの方が圧倒的に多い。
これは一種のメモリリークで、知らず知らずのうちに不要なものが蓄積していくことになる。
ブログはヒープ的だし、コーラはスタック的だともいえる。生存区間が明示できないものはとりあえずnewしてしまうことになる。そうすると、newしたことを忘れてdeleteし忘れてしまう。どうせすぐにいらなくなるものならスタックに置いておけばフレームと一緒に破棄される。
ネットに何かアクションをとるとき、スタック的に使う選択肢はない。強制的に、コストが高いとは思いつつもnewさせられる。何かまずい発言をしてしまい、deleteしたとしても、webarcchiveやgoogleキャッシュや他人のブログの引用として残ってしまう。これはdeleteしたあとの無効領域へのアクセスに似ている。
こういう背景もあり、最近はGC的になってきた。ページランクはてなブックマーク人気エントリーがそうだ。それによって、不要なものを目にする機会も減ったが、同時に古いものへのアクセス可能性も低下した。過去の膨大な蓄積を軽視するようになった。軽視するというよりは、そもそも視界に入らなくなった。
人々の関心が高いものへの参照性を高めるGC的な仕組みは、人々の関心は新しいものへ向きやすいという性質とともに、結局はスタック的な仕組みとなってしまった。定期的に更新されるランキングページを見て、しばらくするとそのフレームは破棄されて入れ替えられる。そうして人々は自らのヒープ領域に情報を蓄積しているつもりでも、実際はスタック領域にゴミとして散在させてしまう。最近の話題であるのに、皆が破棄されたゴミ領域を参照することにより、話題からの発展性はあいまいなものとなることが多い。
ネットの情報制御とは違って、本を手元に購入するということは、ヒープともスタックとも違うスタティック領域という選択肢になる。動的なウェブとは違い、タイトルによって紐付けられる情報が常に一定であり、多くの人がその本を持ってさえいれば、同じ領域へアクセスすることが出来る。これは明らかにネットよりも優れている。スタティック領域であれば、創作者の削除したいという意思も関係ない。作品の管理はすでに版権元に委譲されており、世間の残そうという意思によって残される。ネットの情報はしばらく時間が経てば、その情報は削除されている可能性が高い。リンク先が存在せずに、webarchiveのゴミ領域を参照することになってしまう。あてにならない。スタティック領域であればアドレスは常に一定であり、いつでもアクセス可能だ。