えんぴつはいい

イデアをまとめるときにはマインドマップが有効だが、パソコン上でマインドマップを実装したツールを使っていてもいまいちである。マウスというのは操作していて不愉快で、動かしても何のイメージも沸いてこない。マウスやキーボードというのは何かしら人間に機械化を強いる面があって、作業には向いているが何を作業するかを練るには向いていない。
やはりアイデアを練るには紙とペンが一番のようだ。私の業界でも、設計やバグのメカニズムについて議論するときにホワイトボードで書いたり消したりしながら話を進めると理解しやすい場合がある。優秀な人ほど、大量の裏紙をクリップで束ねたりして机に常に配置しているものだ。質問に行けば紙に書きながら説明してくれ、終わればメモ代わりにその紙をくれたりもする。自分が考えを説明するときにも、紙に書きながら相手と意思疎通を図るとスムーズに行く。人間が物事を理解するというときには、最終的には絵的なイメージとして把握することが多い。だから文章ではなく図も交えたものでコミュニケーションをとっておけば齟齬がない。
発想に重きを置くことが仕事になっている人も多く、そういう人は職場以外でも、常に紙とペンを肌身離さないそうだ。糸井重里が風呂に入っていても思いついたら風呂をあがってでもメモに書くとどこかで読んだ。
凡人であっても脳というのは最高のプロセッサであるわけで、無駄にアイドルしているわけではない。不定期にアウトプットは来るはずなので、それをメモにでも残しておかないと大きな損失となる。むしろ凡人ほどメモが大事となる。肥沃な脳の作物を収穫もせずに忘れたり腐らせたりするのはあんまりだ。
そうしてアイデアを常にメモにとることが習慣づくと、メモの際のツールについて考えるようになる。
紙型とペン型の組み合わせはいくらでもある。この場合何よりも大事なのは汎用性と汎在性だ。プリンタ用紙とえんぴつが今のところ最強の組み合わせだと思われる。
プリンタ用紙は安く大量に購入でき、ノートに綴じられているわけではないので自由に配置や配布が出来る。
えんぴつはなんといっても書けなくなるということがない。ペンならインクが切れる可能性があり、可能性がある以上常にそのことに配慮しながら書く必要がある。意識していないようでしてしまうものだ。えんぴつならいくら書いても折れようともちびようともとりあえず書くことはできる。

だが何よりもえんぴつが優れているのは形である。えんぴつ削りにセットして削る必要から、必ず規格内に収まっている。ボールペンだと、ハンドグリップ感など、わけのわからない人間工学的な小細工がしてあり、形が様々である。持ちやすさに着眼するのはいいが、真に持ちやすいものとはたった一つの特徴を備える。同じ形であることだ。何十年経とうと変わらないことだ。同時代の他の製品との形に差異がないことだ。今手に握っているものと、半年先に再購入したものとが同じ形であることのメリットは計り知れない。手元にものが切れたので再購入しようとしたら、より持ちやすく手にフィットするようにバージョンアップされていたりしたら、喜ぶどころかうんざりする。それまで蓄積してきた自分の体験への蓄積が粉みじんになる。また使いこなしの再スタートとなってしまう。もちろん同じペン型であるから、使い方は基本的には変わらない。しかし実際に使ってみると様々な違和感となって襲ってくる。それが手になじむ頃には市場ではまたそのペンはバージョンアップしているのだ。
どうして同じであり続けることが大事かといえば、それは自分の手を見ればわかる。自分の手は生まれてからずっと自分と一緒だった。だから使いやすいし、意識する必要がない。普段、自分に手があることなどいちいち意識などしない。この意識しないという点が非常に重い。もし手を意識してしまったら、手を使ってするあらゆる活動にとって阻害となる。だから、自分の体だけでなく、自分の周りに存在する全てのものも意識しなくてよいようにすべきなのだ。そのためには同じものを永遠に使い続ける必要がある。
バージョンアップは実は歓迎すべきことではない。Windowsを見れば明白だ。バージョンを重ねるごとに使いづらくなっている。真に必要なバージョンアップはセキュリティアップデートのみである。安全性を脅かさないのなら永遠に最初のままでいい。どんなに使いづらくとも。
変わらないことのメリットは使うもの以外にもある。ランチパックやコッペパンがそうだ。ダイドーの復刻版ジュースもそうだ。同じ味を好む人のなんと多いことか。それどころか、コーラさえブランドを確立してからは味は変わらない。おふくろの味だってそうである。長年の友人や家族のなんとありがたいことか。ずっと同じ関係でいられることは幸せである。
同じであり続けるものの価値をある面では認める人でも、たかがえんぴつという人は多い。100円ショップで適当に買ったりする。ブランドなき製品はその存続もあやふやでリスクが高い。高級万年筆を買う人は、何も見得やコレクション精神で買っているわけではなく、それが変わらないものだから買っているのである。いつ買っても同じものが手に入る。素晴らしいことだ。
プログラミングではこのことを参照透明性という。たとえばある関数がどのような状況で呼ぼうと必ず同じ結果を返すような性質だ。この性質を持った関数なしにはエレガントなコードは組めない。使いやすく、再利用しやすく、思考の負担を軽くする。この性質の優位性は他の分野でも同様だ。
優秀な人は普段何をやっているだろうか。きっと同じことを繰り返しているだろう。同じ本を何度も読み、同じことを何度もはんすうし、たんたんと積み上げるのである。目新しいものに目奪われてうつろう人々は、いつになっても成長することはない。着ている服を変えているだけなのだ。ファッションを追う人々を軽蔑するのもこれによる。
現代は、実のところ新しいことなど何も無いのだ。全ては過去に積みあがっている。社会学者の書いたうすっぺらい書籍を多く読むより、過去の哲学者の著作一冊読むことの方が得ることが大きいのもそのためだ。新しいものを追うことや、それを生み出そうとする試みは、過去の人類全ての叡智への冒涜である。