ゴーストライターの春

新書ブームは衰えるところを知らない。書店で新書の棚の前を歩く度に新しいタイトルが並んでいる。
スポーツ選手や芸能人が書いたといわれる新書も増えた。ブログを書いているような人なら理解していることと思うが、文章を書くというのは一種の才能であり、蓄積型能力でもある。
何年もテレビに映ることやバットを振り回したりボールを蹴ることしか出来なかった人たちに、新書サイズの量の文章を作ることは不可能である。ごくごく単純な事実だ。そもそも彼らには思考能力さえ備わっていない。
それではあの新書たちは誰が書いたかというと、プロの作家たちである。
芸能人やスポーツ選手が著者名となっているような新書を買う層は間違いなく知能指数が低いからテキトーなことを書いても誰も気にしないし、最近の新書は文章も短くてすむので彼らゴーストライターにとってはこの世の春であろう。
ゴーストライターは一応金は手に入るが、最後までどうしても得られないものがある。名誉である。いくら素晴らしい文章を書こうと、その文章は頭の悪そうなスポーツ選手たちの手柄となってしまう。匿名作家でさえ名誉は得られるがそれが叶わないのだ。代理母みたいなもので、一番デリケートな部分をぐちゃぐちゃにされる。哀れなものである。
しかしゴーストライターにもメリットはある。まず、能力の下積みになる。名誉は得られないにしても、自分の意見を有名芸能人の名をもって広めることが出来る。wikipediaのページを見ればわかるように、今では高名な作家も下積みとして有名作家のゴーストライターをしていたようだ。

ゴーストライターが跋扈するのは何も書籍界だけではない。
プログラマという職業自体がそういう性格を持っている。例えばゲームプログラマなら、ゲームの最後にスタッフロールで名前が出る可能性はあるが、私のような携帯開発者だとどこにもクレジットは出ない。それどころか、一機種のプロジェクト開始から発売までそのプロジェクトに関われること自体まれだったりする。一番忙しい時期が終わればすぐにポイされる人も多い。
開発者に日が当たらないというのは普遍的な問題だが、プログラマだとその悲惨さが顕著である。
最近GREEの記事がメディアによく出ており、一部の顔写真つきで登場する上層部のやつらが名誉を独占しているが、実際に彼らの貢献度は大したことないはずだ。PHPの神様とかネタで言っているとしか思えない。笑って欲しいのだろうか。彼らの偽りの成功の影には、多くの開発者たちの亡骸が転がっているのだ。

私が周辺の開発者たちを見て気になっているのは、彼らはゴーストライターのように下積みをしている気配がないことだ。
いつか将来ビッグなことをしてやるぞ的な気概は感じられない。なんか、ただの労働者というか。
名誉が得られないどころか、それを欲してもいないようなのだ。
彼らを観察していると、あるものは空手やテレビゲームやら趣味の充実で満足げだし、子供と遊んだり家族サービスをしたり給料を稼ぐことで責務を果たしたことで十分だったり、異性と交遊を深めることで見境を無くしていたりする。
人生を闘争ととらえているものはひどく少ない。ゴーストライターにさえなっていないのだ。これでは開発者が日の目を見ることなど永遠に訪れないだろう。