雨と傘

雨が降っていて、傘をさして狭い路地を歩いていると、向こうからも傘をさした通行人が来ることがある。そういうとき、人と人との関係の全てがそこには凝縮する。
路地は狭いため、傘をささない二人の人間ならすれ違えるが、傘をさしたままだと一度に一人しか通れない。そうすると自然に、どちらが道をゆずるかということになる。
相手が老人なら道徳的にゆずらざるを得ないが、おっさんならゆずる道義はない。若者ならそこへひざまずけと思う。おばさんなら蹴散らすが若いかわいい女性なら傘を差し出したっていい。
これだけならシンプルな話だが、同じことを相手も考えるために、複雑になる。
いってみれば相手の格と自分のレベルを比較しているわけで、単純にゆずればいいというものでもない。
しばし経ち、相手がどうやらゆずる気配がないと判明すると、しぶしぶこちらがゆずるしかないかもしれないが、もっと大事なものを削ってしまっている。
そもそもゆずりあうという行為が誤っているのではないか。それはどちらかの一方的排他的な自己犠牲の上に成り立っている。
相手にゆずらせるということが相手の犠牲になると理解しているものも多く、そういう場合はさらに相手にゆずるが、しかしその相手も同じ気持ちを持っていると、さらにゆずられて事態の収拾がつかなくなる。
道をすれ違うという本来の目的は忘れ去られ、ゆずりあいの膠着状態となってしまう。
解決方法もある。傘をさしたまますれ違えばいいのだ。つまり、片方の人間が傘の高さを調節すればよい。片方の人間が傘を普通の高さにさし、相手が傘をさらに高い位置にさせば、見事にすれ違うことが出来る。
しかしこれは双方の人間の身長が近い場合には使えるが、片方が高身長だったりするとどうやってもうまくいかない。低身長の人間が最大限に傘を高くさしても、それは高身長の人間の頭にあたってしまう。
これはつまるところ、人がわかりあうということや、助け合うということや、手を取り合うということが、究極的には成立しないということを示している。
たった一つだけ、方法がある。二人とも、傘を捨てればいいのだ。