マイカップ

駅の中のコーヒーショップの店頭にこんな文字があった。「マイカップ持参の方は割引します」。マイバッグというのはよく聞くが、そうかその手があったかとひざを打った。

私は潔癖症の気がある。普段通っているオフィスにはフロアに100人ちかいゴミどもがいるが、出入り口は一箇所しかない。セキュリティカードを通す都合からそうなっているのだが、潔癖症からすると最悪である。何しろ全員が洗ってもいない素手でドアノブを触るのである。電車のつり革を握ってコンビニで店員と小銭のやり取りをしてトイレでズボンのチャックをあけて手も洗わずに鼻をほじってそののままの素手である。だから私は必ずシャツの袖で自らの素手をガードしてノブを回すようにしている。非常に面倒くさいがゴミどもと間接的に触れ合うなど怖気が走る。

どうしてこんなことになってしまったのか。それは扉が一つしかないからである。たった一つの扉を全員で共有するのがまずいのだ。キーワードは「共有」である。これはある程度の信頼や絆が保障された相手とのみ成り立つシステムだ。しかしリソースの制限上、扉などどうしても他人とのある程度の共有は不可避だ。オフィスのトイレも共有である。しかし共有は出来る限り最低限としたいものである。何かを共有しなければならないということは、リソースが不足しているということを示す。本来基本的人権とは、あらゆるリソースを一人ひとりに与えるというものである。そういう究極の分散システムが憲法である。私たち国民は、自分一人に対してのみ占有されない何かが一つでも存在するなら、それに向かって不平を唱えるべきである。そうして全てが与えられて初めて自立したといえるのだ。それによって自律が可能になるのだ。

時代もそのように進んできた。文明とはあらゆるものに所有者タグをつけることから始まったのだ。そしてこの占有の高貴さと共有の下劣さの間を埋める仕組みもある。それが「使い捨て」である。言ってみれば一回きりの一時的な占有である。最終的には、共有は消滅することが望ましい。最悪でも、全てを使い捨てに置き換えるべきだ。ドアノブなんかも取り外しがきくようにして、マイノブをそれぞれが持つようにすればいい。そうすれば他人が手を洗ったかどうかなど気にしなくてもよくなる。

最近吉野家すき屋は割り箸を廃止してしまい、箸を洗って使いまわすようになってしまった。完全なる退化である。環境にやさしいなどといっているが、結局は割り箸よりもコストが安いからである。そういう一方的な企業論理を、一般庶民は環境配慮という目くらましで受け入れている。愚か者である。割り箸を洗って使いまわすのには反対するくせに、普通の箸ならそれが許されるというのがいかにもアホ庶民の考えである。

イカップもありなのだから、マイ箸もありだろう。そうやって少しずつみんながマイを意識するようになるのはよいことだ。現代市民に唯一足りないのは利己的な意思である。他人への配慮なんて本当はしなくてもよいものである。そんなものが必要なシステムの方に問題があるのだ。むかつく奴にはクズといってやればよいし、死んで欲しい相手には死ねといえばよい。殺したい奴を殺すといっても逮捕なんてされない。そういうことが思い通りになるのがふさわしい未来である。今よりももっと生きやすくなるはずだ。