もしも人生をやり直せることが出来るならどれほど嬉しいことだろうか。もしも人生をやり直すことが出来ないと知ったら、どれほど悲しいだろうか。まだやり直しがきくと鎮静剤を打ち続けてもいずれは終わりが来る。お気に入りの散髪屋がある。引っ越す前の町にあるので、わざわざ電車に乗って行くほどだ。昼前に俺が行くと、ずいぶん混んでいた。おっさん一人でやっているので、回転はそうよくない。本を読みながら待っているとき、ふと周りを見ると、客たちに共通項が見つかった。みんな髪が薄かった。俺はてっきり、髪は長くなったら切るものだと思っていた。人それぞれに過去があるように、髪を切る理由もいろいろあるのだろう。詮索はよくない。それからしばらく経った。出て行く客も入ってくる客もみんな薄かった。散髪屋のおっさんはプロなので、修繕可能な奴は出て行くときには頭頂部がうまく隠れていたし、修繕不可能な奴はそれなりに整理された髪型になっていった。散髪屋を出て行く客の顔は何故か満足げなものだ。客たちは地元客なので、恐らくもう長い間この散髪屋のお世話になっているのかもしれない。散髪用の椅子に座って正面の鏡に映る自分の姿と共に今日に至ったのだろう。10年前ならきっと黒々としてたに違いない。年月と共に減っていく髪のことをどう思っていたのだろうか。もちろん最初は気にもしていなかっただろう。髪なんて放っておいても生えてくる邪魔くさいものくらいにしか思わなかっただろう。だが次第に変化が訪れる。昨日まであったそれが、今日は抜け落ちたまま、生えてこないことが増えてくる。失って初めて気付くというやつだ。邪魔だと思っていたものに、ずいぶんと守られていたことを知る。エスカレータの下りで後ろの人の視線を意識するようになる。髪がなくなった代わりに、いろいろな負の感情がまとわりついてくるようになる。積年していた男のプライドは日に日にやせ細っていく。それでも散髪屋へ行くことをやめない。どんなに髪が減っても、残っている限りは通い続けるのだろう。守ろうという気持ちは伝わってくるが、ナンセンスである。私が経営者ならそういった人材は真っ先にリストラ候補である。なぜなら彼らは泥舟から脱出することが出来ないからだ。ふんばるのとしがみつくのとは違う。そういう奴らは明日も今日と同じだと固く信じきっている。これまでと同じ努力と能力で明日も乗り切れるとのぼせている。スキンヘッドに優秀な奴が多いのも頷ける。フーコーとかが良い例だ。人生のある瞬間に、人は変化を突きつけられる。例えばそれは髪が減ったときかもしれない。そのときに、それまでと同じように振舞うのか、まったく違う生き方を選ぶのか、その分岐はずいぶん大きなものだ。髪もいずれはついえる。最後の一本が抜け落ちるとき、あなたは微笑んでいられるだろうか?