机の上に食パンを置いていると妻から賞味期限は大丈夫かと聞かれた。大丈夫でしょと適当にあしらうと妻は賞味期限を確認したようだ。「21日」と言った。21日、その日は私の26歳の誕生日である。食パンの寿命が尽き、新しい私の一年が始まる。命の輪廻とはかくも不思議なものである。子供の命名権は妻にゆだねることにした。男が女の子の名前を決めることはとても難しい。そこにはどうしても邪悪なものが紛れ込んでしまう。しずかちゃんの名前をつけたのは恐らくしずかちゃんのパパだろうが、それはあれだけの人格者だから出来たのであって、生半可なことではないのである。思えば日本人とは幸せな民族である。子供の名前に対して、呼び名だけでなく、その意味さえも与えられるからである。表意文字の威力はかくもすさまじい。子供は普段意識しないだろう。小学校のテストの名前欄に自分の名前を書く。最初は漢字など使えないからひらがなで書く。やがて漢字を少しずつ増やしていき、自分の名前全てを漢字で書けるようになる。そこに書く文字たちには一字一字に親たちの魂が込められているのである。単なる他との識別のための音ではない。かけがえのない命だということを文字が教えてくれるのである。これがイギリス人ならジェームズである。なんと軽い命か。ジェームズ。何人死のうが関係のない薄っぺらいである。しかし悲しいことに、親が関われるのはそこまでである。親が子に与えられるものなんて、名前くらいしかないのである。どんなに祈りを込めて名前をつけたって、花畑牧場が閉鎖してクビを切られて路頭に迷う派遣のような存在になるやもしれぬ。願わくば、親が未来を願って一字一画を選択したように、子供には慎重に人生を選択していって欲しいものである。賞味期限が切れても食パンが終わりなわけじゃない。中年を過ぎたから人生が終わりなわけじゃない。名前なんかでは人生は決まらない。では何が子供の将来を決めるのだろうか。少なくともその一つは親の生き様であろう。子供が強くたくましく気高く成長することを望むよりも前にしなければならないことは山ほどある。吉野家で牛鮭定職の鮭の骨をより分けるときの中年サラリーマンのような目をしてはいけない。