孤独というものについては誰もが一家言もつ。人間という生き物は、孤独との距離の取り方によって各々の存在が決まっているのだ。私は孤独をこの上なく愛する人間である。孤独を愛しているというよりは、むしろ必要に迫られてそうしている。孤独であることの方が、大勢の人間に取り囲まれたものよりも、より強くなれるからである。職場の同僚との距離感にもそれが出ている。中には、職場の同僚と親しくなり、土日にまで誘い合ってアウトドアに出かけたりする連中もいるようだが、そんなものは人生の大いなる無駄である。阿呆のすることである。自分よりも劣ったものたちに囲まれていると、能力を引き摺り下ろされるからである。もちろん単なるスタイルではある。自らとは異なる人生と共に焚き火を取り囲むような生き方も、それはそれで楽しいものかもしれない。もし私が保育園児ならそちらを選択するだろう。だが自らに使命をまとうものは、そのような不埒なことはできないのである。お昼ごはんを同僚と共にとるなども吐き気がする。食事くらい一人で黙ってすませられないものか。そういう輩は夜に一人でトイレにも行けないに違いない。アカギも死ぬ間際に言っている。そんなもの休憩でしかない。そんなものは人生を熱くしない。そういった孤独を愛する人間たちにとって、ラーメン次郎ほど適した食事場所もない。ラーメン次郎を知らない不幸な少年少女のために補足しておくと、人類史上最高の、人の歴史が終わるまでその地位が揺らぐことのない、究極最強のラーメンである。私が関東に来て唯一よかったと思えるのはこれである。どれくらいおいしいかを文章に表すのは不可能だが、たとえるなら麺をすする度に風俗嬢が交代で奉仕してくれているような快感がほとばしるほどである。うまいなんてものではない。脳髄の一滴残らずの神経が口に集まったかのような異常事態に陥るのである。仕事のことや家族のことや将来のことやすべてが頭の中から消し飛ぶのである。しかし、ラーメンはうまいが、店は汚い。ゴキブリが目の前をはっても違和感はない。掃除なんてしたことないんじゃなかろうか。スープも脂でぎとぎとで、何かへんなものが浮かんでいても不思議はない。見た目を気にしていては食せない類だ。不衛生きわまりないおっさんの店員が、いつ洗ったかもわからないような素手で調理している。しかし皆この店に並ぶのだ。食中毒を気にしている軟弱な客なんて一人もいないのだ。ある人は次郎を食べる度に腹を下しているが、それでも通っている。ラーメン次郎は、ものごとの本質を教えてくれる。飲食店には、飯を食べにいくのである。消費者が何よりも重きをおくのはうまい飯を食べることである。店が汚いとかカロリーや脂がひどいとかそんなことは所詮どうでもよいことなのである。技術者も同じである。勤怠が悪いだとか上司に不都合な態度をとるとか同僚を蔑むとか人間的に問題があるなど、どうでもよいことなのである。技術的に優秀でありさえすればいい。これが全てである。昔ある優秀な人が、会議の場で公然と上司と同僚の無能さを罵ったことがあった。そのことはいろいろと語り草になり、いくら優秀でもあれはねぇ、ということを周りは言っていた。私はそうは思わない。技術力のない技術者など要らない。この業界にチームプレイなどない。全ての問題は、優秀な人がたった一人で片付けているのだ。他の人間は工数のつじつまあわせである。おこぼれで飯を食わせてやっているだけである。ラーメン次郎にはテーブル席なんてない。本当においしいものは、一人ぼっちですするからこそ得られるのだ。