私たちはいつも頂上へかろうじて辿りついている。普段は意識しないが、私たちの毎日は多くの成功の積み重ねである。そのことに気付かされるのは通勤の駅の改札で財布を家に忘れたことに気付いたときである。先日の私がそうだ。そんな朝は全てがむなしくなる。自分の立っている場所が、生きている意味が、わからなくなる。わからなくなった私は財布を取りに帰るために仕方なくタクシーに乗った。阿呆な話である。そんなことならはじめからタクシー出勤すればよかった。人間全てがむなしくなっているときは、やたらと耳がさえる。何気なく聞いていたタクシーのラジオから流れるエピソードに、私は心を強く打たれた。それはこんな話だった。ある男性は大学生になってから、馴れない生活の中からワンダーフォーゲル部に入り、山に登ることに生きがいを見出した。本当に充実していたそうだ。しかし、突然、男性は脊髄を難病に冒され、ベッドでほぼ寝たきりのような生活になった。追い詰められた男性を救ったのは、折り紙の飛行機だった。ほとんど手を動かすことしかできない男性はだんだんと折り紙にのめりこんでいった。空をなでる紙飛行機に自らの夢を重ねたのだろう。男性はやがて数百種類の紙飛行機の折り方を発明した。紙飛行機の滞空時間だかの世界記録保持者であり、紙飛行機界ではその名を知らぬものはいないほどの人物となったそうだ。あとから調べると戸田拓夫というらしい。今では登山も出来るくらいに回復したようだ。紙飛行機に生涯をささげる、そんな生き方もあるのだな。部屋についたあと往復で駅までのタクシーの間、運転手と話をした。朝のタクシーの運転手は終電後のカスみたいな運転手どもとは違って、実に愛想がよい。「朝から財布を忘れたのに改札で気付いて遅刻が決定したあげくに駅をタクシーで往復してお金も使ってものすごくいやな気分になったけど、さっきのラジオのエピソードでずいぶん心が洗われました。もとはとれたと思ってます。」的な。すると運転手は、大切なものは肝心なときになくなったりするものだと言った。しかし紙飛行機の男性は、無くしたからもっと大切なものに出会えたわけで、なかなか人生とはわからないものである。運転手は最近ハローワークがいつも行列になっていることを気にしていた。仕事がないのは大変だと言った。その運転手は年金をすでにもらっていて、お小遣い分でも稼げればよいという思いでやっているから、タクシーも楽だが、実際に家族を養う必要のある人たちだと、この仕事はきついということを言っていた。世の中には、登る山も飛ばす紙飛行機も持たない人たちがたくさんいる。ハローワークに並んでいてもそれを見つけることは出来ない。失業者たちも折り紙を折ればいいのに。