そろそろ子供の性別が確定する。俺は男の子であることを望んでいるがこればかりは天運に任せるしかあるまい。一般に、我が子を授かった場合、父親は息子を、母親は娘を希望するらしい。母体への影響を考慮すると性別を出産前に判定するにはエコーによる目視に頼るようだ。しかし現代ではたとえエコーに男性器が写ろうとも心は女性であったりすることもあるようで複雑である。どちらにせよ、まず考えるべきは名前である。名前とは我が子へアクセスする際のポインタのようなもので、そのネーミングに配慮を怠ると強い後悔が伴う。自分が軽蔑するものの名前を間違って与えたりしたらもう愛することも出来まい。しかも、最初は崇拝していた人がそののちのちの失策により軽蔑の対象へと堕ちたとき、同様のこととなる。ましてやありふれた名前を用いればそのリスクは高まる。これほど命名規則にオリジナリティが求められるものもあるまい。また逆に、あまりにも偉大なものの名をかぶせてしまうのも困り物である。イエスやキリストという名を持つものがいないのはそのためであろう。しかし我が子である以上、自分の家系や自らとの何らかの関連性を持たせたいと思う人も多かろう。例えば私の名前は父親から一字もらっている。以前妻と冗談交じりで名前について話したことがあって、俺は俺の名前をそのまま与えたいというと否決された。俺がこの世界でただ一人尊敬し崇拝するのは俺自身である。この偉大な名を我が子へ与えたいというのに何の問題があろうか。ちょうどカラマーゾフの兄弟の解説を読んでいて知ったが、ロシアでは名前と苗字の他にミドルネームとして父親の名前を自動的に授かるのだそうだ。日本にその仕組みが無い以上名前として直接すえるしかあるまい。何よりも俺は我が子に俺の意思を継いで欲しい。俺がこれから人生を賭けてやることの続きを託したい。だからこそ男の子でなければ困る。女では俺の意思を継げないからだ。全ては二分の一である。どんなに欲しようと己を高めようと、最後の最後はトランプをめくらなければならない。だからこそ尊いのである。