朝から、しょこたんぶろぐを読み、癒される俺は、いったい何をやっているのだろうと自問せずにはおれない。芸能人ブログなど読むような人種はアホでありカスであるからそんなものにだけはなるまいと固く誓った心はもう今は無い。私は、賎民に成り下がってしまった。昨日も続々とバグが発覚し、ロジック破綻一歩手前まで追い詰められ、深夜1時過ぎに夕食を終えたあと横になり朝までになんとか解決を図ろうと固く誓ったが、気がつけば朝の5時になっていた。昨日ちょうど「ニーチェとの対話」を読み終わったが、その中で、高貴な者に忍び寄る罠について書かれてあった。かつては高みをこころざし鍛錬にまい進したものも、やがては心くず折れてしまうという話だった。そうなった者は、皮肉なことに、もともと高みなど見上げたこともないようなモノたちよりも、もろい。進んで坂道を転がり落ちるように賎民となるのだそうだ。私の心には、日に日にニーチェへの思いがつのるばかりである。私の心には、ニーチェしょこたんの生足写真が同居している。天と地に引き裂かれそうである。今日も外は雨である。たとえどんなに遠くまでの切符を手にしたものも、次の駅で降りてしまえばおしまいである。ニーチェが現代にあったならば、何を成しただろうか。きっと積み上げられた生足の前に心くず折れたに違いない。心とはもろいのだ。だがニーチェなら、たとえ今は足しか見えなくとも、やがて空を見上げるはずだ。人は空を飛ぶことは出来ないが、空にあることは出来るのである。しかしもっと望むのならば、生足よ空へ浮かんで欲しいものである。そうしたならば、空と生足を同時に眺望できるのであるが。人は超克されなければならない。それは空を目指すということだ。全ての人が空へ飛び立つとき、残された私が超人となるのだ。